我々が心に抱くイメージや図よりはるかに定義や操作方法がはっきりとしている算術の言語で表現しなおすことで、いくらか柔軟性にかけるものの、このような活動の内実を我々にとってより明らかな形で提示できる、という点にあります。このようなことができるのは、(続く)
2012-05-30 01:20:37「×」や「+」といった算術の基本概念が日常の活動の根本をなす推論活動に根ざしたものであるからです。他方で、算術の分析に日常の活動を用いることはまさにこの逆で、定義のあいまいな概念を用いて算術の内実を明らかしようとする試みであるので、それが採るべき方策でないのは明らかです。(続く)
2012-05-30 01:21:46例えば、分数の割り算がどのようなものであるか、すなわち分数の割り算の「意味」を考える際に、まさに上述の理由で「分ける」や「配る」といった我々の活動は全く役に立ちません。(続く)
2012-05-30 01:23:06分数の割り算がどのようなものであるかは、まさにその操作そのものによってのみ明らかにされるものであり、その点において1kkenやSentoがいっていたように算術のシステムからして「自明な」ものとなります。(続く) 。
2012-05-30 01:24:06それにもかかわらず算術の「意味」が我々の日常の活動によって説明できるような気がしてしまうのは、算術のシステムが非常に優れたものであり、算術の言語それ自体が対応する現実の事態や活動を描き出しているように思われることによるのです。(続く)
2012-05-30 01:24:52しかし先に述べたように、算術の意味はその操作そのものであり、それが描き出しているように思われる現実の事態や活動(例えばケーキを分ける)ではありません。これらの事態や活動ができるのは算術の意味を「ほのめかす」ことのみなのです。(続く)
2012-05-30 01:26:35このような考察が現場レベルでどのように用いられるべきかはわかりませんが、教師の側がさまざまに入り組んで混同されがちな複数の事柄をきちんと峻別できていることはいくらか必要なことであるように思われます。(続く)
2012-05-30 01:28:38いま正に数学カリキュラム論で勉強中のことが流れてる。すげー。 数学の単元で、戦後日本に生きていく上で起こる事象を数学的に見ようという生活単元というものが入ってきているんだけど、それにはアメリカでの科学的事実と宗教観のぶつかりなどが影響していて、
2012-05-30 01:57:07数学者から見れば数学を学ぶ上での順序性を考慮していなかったらしいのだけど国の事情や政治家の関係やらで取り入れざるを得なかったらしいです。 そこら辺から順番がおかしなことになってきたのかなと思います。 まだ、昭和20年までしか勉強していないのでこの後どうなるか楽しみです。
2012-05-30 02:00:37その頃は「問題には具体的な素材を多くとり、事象を数学化し、且つこれを処理する修練を重んずること」「既成の数学の注入を排し、事象に即して、生徒自ら数理を発見するよう導くこと」に重点が置かれていたようです。
2012-05-30 02:04:23