お菓子っ子さんが語る、董卓伝4~暴君化するまで~
- tetteikaikyou
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蔡邕は侍中(宮中顧問官)として皇帝の側に侍り、左中郎将(近衛司令官)として近衛兵を統率しています。蔡邕は皇帝の監視役なのです。侍中(宮中顧問官)・中軍校尉(旅団長)董璜と並ぶ董卓の宮中掌握の要と言えます。董卓は老学者蔡邕の諫言の中に自分に対する誠意を見ていたのでしょう
2012-05-30 21:00:58経済政策の失敗を取り返すために、儒教道徳の重視を謳い上げる一方で、警察力を行使して批判者には「不道徳」や「反逆者」のレッテルを貼って弾圧。一族と腹心が掌握する軍事力の圧力で皇帝や朝臣や民衆を威圧。どんどん尖鋭化して目的を見失った改革。改革者董卓はもはや暴君でしかありませんでした
2012-05-30 21:10:09以上が長安遷都後の董卓の内政政策でした。後漢帝国の閉塞感と、桓帝や霊帝とその側近の宦官の改革路線とその挫折、霊帝路線を改めるべく登場した改革者董卓が挫折して尖鋭化し、目的を見失って暴走していく過程がご理解いただけたかと思います
2012-05-30 21:13:57@sweets_street 読み終えました、非常に面白かったです。これはもうまとめて董卓論として出版してもいいのではと思うくらい。勉強になりました、有難うございます!
2012-05-30 21:25:15@sweets_street 経済政策の失敗を誤魔化すため、弾圧して金をかき集めるってよくあるパターンですよね。ふと董卓とロベスピエールがなんか被ってきました。
2012-05-30 21:23:17軍隊と警察に頼って権力を維持していたところも似ていますね。厳格さが行き過ぎると発想が同じになるようです RT @humikasan: 経済政策の失敗を誤魔化すため、弾圧して金をかき集めるってよくあるパターンですよね。ふと董卓とロベスピエールがなんか被ってきました。
2012-05-30 21:27:13@ShoukoYoshihiro @sweets_street @humikasan 中共はむしろ、古代の貴族制帝国みたいですw
2012-05-30 21:35:46詳細は次章で述べますが、簡単に言うと董卓直系、涼州系、并州系、近衛兵系、旧何進系などの雑多な軍団から成立している董卓軍の中の并州系軍団のトップです RT @rafale_escate: 董卓政権下における呂布の立ち位置ってどういうものだったんですか?
2012-05-30 21:32:42@sweets_street なるほど、考えてみれば董卓軍団の構成員って、結構雑多な事になってましたもんね。そういう状況だと、派閥の領袖という立ち位置ですか。 演義系の創作の影響から相当高い地位にいるとは思ってたけど、名前が出てこなかったので気になって。
2012-05-30 21:38:44@sweets_street そういう経済活動の実態をお聞きしたので、今度は魏呉蜀の経済実態を伺いたいと思います。魏は中原を抑えてますからわかるのですが、呉・蜀はどうなっていたのでしょうか
2012-05-30 21:25:40@a5mixbabel 蜀は銅山を押さえているため、質の高い銅銭を鋳造できました。蜀の銅銭は当時の中国では一番質が高く、その信用が北伐の戦費を支えていたと思われます。塩の専売も有力な財源でした。南中(現在の雲南や貴州)から東南アジアに通じる交易ルートも財源ですね
2012-05-30 21:38:18@a5mixbabel 呉はやはり大きな銅山を抱えています。その割には貨幣の質は良くないようですが、銅は他にも使い道がある戦略物資なので、それが豊富なのは経済に大きく寄与したでしょう。鉄資源も豊富ですね。交趾(今のベトナム)から南シナ海に出る交易ルートも有力な財源です
2012-05-30 21:49:21@sweets_street お疲れ様です。一気に読ませて頂きました。董卓が遷都した時の長安って首都としての機能を備えたほどの都市だったんですか?前漢で首都でしたが、かなりの間放置されていたわけですよね。
2012-05-30 21:36:51@DukeLegolas 長安のある京兆には、洛陽のある河南と同じく都知事である尹が置かれ、副都扱いでした。隣接する扶風・馮翊と合わせて「三輔」と呼ばれ、河南・河内・河東の首都圏の「三河」の次に重要な準首都圏と位置づけられていました
2012-05-30 21:53:28