-
satomasaaki
- 13641
- 2
- 2
- 4
![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
自分の感情をストレートにぶつけても、相手は共感してくれません。 感情をそのまま吐き出せば、別のものが伝わりやすい。 伝えようとする場合は、少し意識しておくと良いかもしれない。
2012-06-05 16:13:13![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
深入りせず傷つかず傷つけず、楽に生きる方法は、いくらだってある。 それが楽しいかどうかは、保証の限りじゃないけれど。
2012-05-31 13:10:19![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
どんな言葉を聞いても、どんなに調べても、決して納得なんかできないのに。 それどころか、混乱に拍車がかかるだけなのに。 そんなに自分の肌が信用できないなら、ずっと頭の中の理屈だけで生きていきなさい。 そういう生き方が悪いわけじゃないんだから。
2012-05-31 13:08:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
頭でわかっているのに、どうしても自分の感覚が信じられない。 理由がわからないまま「そう感じる」ものより、理屈で説明がつく方を選びたがる。 自分の「ほんとう」がどっちにあるのか、すっかり自分じゃ感づいてるのに、それでも、まだ他人に背中を押してもらいたがる。
2012-05-31 13:05:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
朝起きてから夜眠るまで、僕達は実にいろんなものを見ています。 そうして見ながらいろんなことを思ったり感じたりしています。 写真は、人に見せたいから撮るのでしょうか。 なにかすごく珍しかったりすごかったり、そういうものだけが、撮る対象でしょうか。
2012-05-18 11:14:08![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
撮りたいもの。撮るべきもの。 それらがなかなか見つからない。探してるんだけど、なかなか良い被写体と出会えない。 季節のせいかも、体調のせいかもしれない。 でも、それじゃ一日、朝から晩までなにひとつ面白いこともなく、なにひとつ出会いもなく、そういう毎日が続いてると言うのでしょうか。
2012-05-18 11:10:45![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それでも写真に撮って見せるのはなぜ? 「持って来れないものだから」それもある。 けれど、本物を持ってきても伝わりにくい、むしろ写真のほうが伝わってくる、そういう部分を見せたいから。 実際、そういう事じゃないのかな。
2012-04-27 20:28:30![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
きれいな被写体、めずらしい被写体、だったら写真なんか撮らずに、そのモノを、そのまま持ってくれば良いでしょう? 写真なんかよりずっと、「きれい」や「めずらしい」が伝わるはず。
2012-04-27 20:26:22![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
なにが伝えたいのか。眼前の光景か。 その被写体の素晴らしさ。確かにそれはある。 だが、それを見て、その瞬間を撮ろうと思ったあなたの想いや気分こそ、実際、「伝わったらいいな」そう思ってるんじゃないのかな。
2012-04-27 20:22:05![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
写真は、詩に似ている。 写真は、短歌に似ている。 描きたいのは「その光景」を前にした自分の心情であり、それを理解して欲しいんじゃなく、「感じて」欲しいのだ。
2012-04-16 22:36:16![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
言葉遊びのように感じられるかもしれないけれど、所詮、写真を言葉で完全に説明、理解しようというのが無理。 これは個人の感覚であって、必ずしもこの言葉通りである必要はない。 要は微妙だけど確実に差異があることに気づいてほしい。 写真表現なんて案外そういうところに鍵があったりする。
2012-03-28 12:55:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
その風景を前にして「あ、ここで写真を撮ろう」少なくともそう感じてシャッターを切っているはず。 なのに自分の景色になる前に、いたずらに構図や「どこからどこまで入れようか」なんて頭で絵作りをしてシャッターを切る人が多すぎる。 それじゃ、いくらやったって風景は風景のまま。
2012-03-28 12:52:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
風景と景色。その差がわかるだろうか。 一番異なるのは、向こうにあるか、こちら側にあるか。 ただ写しただけでも、今のカメラは性能が良いからそこそこちゃんと写ってくる。 けれどそこには、向こう側の風景があるだけ。 作者不在の、なんてことない、どう見ていいかわからない写真。
2012-03-28 12:50:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
光はそれ自体写りません。 光って見えるのは、モノに光が当たって反射してるから。 つまり写真に写ってくるのは反射した光じゃなく、光が反射したモノのほう。 ここわりと大事。誤解してる人が多いです。 光はそれ自体、写らない。 何かに反射して初めて感じられるものですから。
2012-03-12 19:12:47![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
仕方ないんだよ。 写真の楽しみ方は自由なんだけど、写真の楽しみ方は人それぞれだから。 勝手に自分で「こうすべき」って決めちゃってて、そのなかでもがいてるんだから。 こっちが開こうとしても、相手にその気がないと開けないんだよ。 みんなが写真表現を目指してるわけじゃないんだから。
2012-03-02 19:21:07![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それが本当に撮りたいならともかく、「撮りやすいから」「絵になりやすいから」で撮ってしまう安易さ。 安易な写真を撮っていると、そのうち自分の感覚まで安くなってしまって、最終的には写真を撮って公開する楽しみや喜びから遠ざかってしまうんじゃないかと心配です。 そうなってからじゃ遅い。
2012-03-02 19:17:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
写真を見る時には、その写真から撮影者の姿を想像して感じる事ができるのに、いざ写真を公開する側に立つと、自分を隠して、写っているものだけを見せようとする。 そんな印象を持つ写真ばかりが増えているように感じます。
2012-03-02 19:15:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
何度も言ってるけど、写真は誰が何を撮ろうが、まったくもって自由。 楽しみ方も自由だし、ブログにどんな写真を載せようが自由。 だけど、あまりにも作者不在の写真が多すぎると感じてます。
2012-03-02 19:12:47![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
表現って、ひとりでもできるけど、相手がいると楽しい。 反応してくれるともっと楽しい。 思ってもなかったことまで伝わってしまうと、ちょっぴり恥ずかしかったりするけど、やっぱり嬉しいし、楽しいよね。
2012-01-15 22:43:21