続2)狩猟採集生活するヤノマミと「現代文明人」の心情(感情)・倫理・規範について

@gmax_jpさんとのやり取りの続きのまとめ。 アマゾンの密林で、人工物は身の回りの手作りの品のみで対応して生きているヤノマミと、他方で巨大科学技術の積み上げた人工物に囲まれた、人と組織と人工物の密林に囲まれて生きている我々「現代文明人」とは大きく異なる。 それにも関わらず我彼が「似ている」と感じるのは、言葉を持ってしまった人間の共通の特色である、言葉を介して他者と関わる関わり方における共通点ではないだろうか。 ●先行するまとめ: ★「アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか?」http://togetter.com/li/318613 続きを読む
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ひじじきき @hijijikiki

④この入れ子状になった意識の循環が形成され、高度化されうることが人間であることの特色だと思います(人間であるための条件とは思いませんが)。この意識の循環により、他者の思惑を忖度して行動することが可能になり、他の集団行動をする動物には見られない、

2012-06-15 23:19:57
ひじじきき @hijijikiki

⑤言語・概念による行動の伝達と共有化という「内部化された集団心理」が可能になったと思われます。例えば、国家という抽象概念のために戦場で敵を殺すなどの。前述の大枠はこの意識の循環を含みますが

2012-06-15 23:20:42
ひじじきき @hijijikiki

⑥、言語・概念の循環の結果生じたもの、文化などが行動に占める程度が、環境や文化によりヤノマミと我々とでは大きく異なり、ご指摘のように「社会的な調整は(我々は)個人のレベルで、(ヤノマミは)シャーマンという特殊な存在が引き受ける」ことが多いのだと思います。

2012-06-15 23:21:10
ひじじきき @hijijikiki

⑦gmax「「文明化」された人間においても‥身体的危険が迫れば、理性ではなく直感や感覚を重視する」>ここで『災害ユートピア』http://t.co/YPa7PCtBを思い出しました(積読ですが)。

2012-06-15 23:21:38
ひじじきき @hijijikiki

⑧災害時には言語・概念の循環で高度に形成された社会が機能せず、それに依拠していたエリートがパニックを起こし、それに縛られていた人々はそれまでの日常とは異なった面を見せるということでしょう。

2012-06-15 23:22:05
ひじじきき @hijijikiki

⑨gmax「出産したばかりの子供を精霊として弔う(と表現させてください)とき、母親は泣いていた」>これは、その後にご指摘の、心情(感情)・倫理・規範という重要な要因と深く関係していると思います。倫理・規範は社会的、言語的なものであるが、心情(感情)は

2012-06-15 23:22:35
ひじじきき @hijijikiki

⑩言語や社会が異なっても、より広く共通しうる、共有されうるものでしょう。心情(感情)を無視したり、それに逆行するような倫理・規範も存在するかもしれないが、広く支持され、普遍性を持つのは一般的な心情(感情)に沿ったものかと。その観点から、倫理・規範を考えるときに

2012-06-15 23:23:06
ひじじきき @hijijikiki

⑪ヤノマミと我々の両方が射程に入るような普遍性はどういうものでしょうか。現代でも、妊娠中絶には種々の議論・論点があるが、どの段階から胎児・嬰児を人と認めるのか、どの段階で、誰が誕生させるか否かを決定するのかが大きな論点かと。

2012-06-15 23:23:29
ひじじきき @hijijikiki

⑫ヤノマミでは出産後の嬰児は精霊であり人ではないが、日本では胎外で生存可能な胎児は法的に人である。ヤノマミのワトリキ集落でも日本でも母親が誕生させるか否かを決定する。両者で、胎児・嬰児は何時から人であるかが違っているが、日本でも時代によりその時期は異なる。

2012-06-15 23:24:35
ひじじきき @hijijikiki

⑬一方で国分氏の本・ビデオ、特に出産場面の映像は、我々の世界とはまったく異質のもののように見える。確かに近代文明と医療でより安全な出産と、設備など皆無の密林での出産とでは、物質的には大きな差がある。このように物質的な条件では、一方は

2012-06-15 23:25:21
ひじじきき @hijijikiki

⑭アマゾンの密林で、人工物は身の回りの手作りの品のみで対応して生きているヤノマミと、他方で巨大科学技術の積み上げた人工物に囲まれた、人と組織と人工物の密林に囲まれて生きている我々「現代文明人」とは大きく異なる。

2012-06-15 23:26:09
ひじじきき @hijijikiki

⑮この目もくらむような我彼の生活・自然環境の差は国分氏のビデオの出産場面を見て我々が感じることからも伺える。それにも関わらず我彼が「似ている」と感じるのは、言葉を持ってしまった人間の共通の特色である、言葉を介して他者と関わる関わり方における共通点ではないだろうか。

2012-06-15 23:26:35
ひじじきき @hijijikiki

⑯それ以前の問題として、喜怒哀楽などの感情・情動やそれに基づいて形成される心情における我彼の共通点があることは言うまでもないが。さて、出産に関する倫理・規範について。産む産まないは、誰がどんな基準で決めるのか、決めるのが妥当なのか。

2012-06-15 23:27:09
ひじじきき @hijijikiki

⑰直感的には、胎児・嬰児に一番近い人、即ち妊婦が決めるしかないと思われる(国分氏は「母親でなく男が決める村もあるらしい。その場合はたぶん悲惨になると思う」:講演録p39と発言)。妊婦にとって胎児は体の一部であり、両者は相互に極めて強く影響しあい、

2012-06-15 23:27:40
ひじじきき @hijijikiki

⑱分かちがたく関係しあっている。最近流行の言い方では、当事者本人である。自分に極めて近い存在、自分と切り離せない存在を売買の対象にしたり、他者からその扱いや処遇を自分の意に反して干渉されたりすることに対して、おぞましさを感じるのは、

2012-06-15 23:28:09
ひじじきき @hijijikiki

⑲文化や慣習の差を超えたある共通性が存在するように思われる。例えば、人命や人身や臓器の売買、親兄弟などの肉親と強制的に隔離されることなどに感じるおぞましさ。これらのおぞましく感じられることは、たぶん多くの文化圏で、よほどの理由がない限り、

2012-06-15 23:28:44
ひじじきき @hijijikiki

⑳悪いこと、してはならないこと、とされているのでは。人身・臓器の売買と類似の感覚・心情・感情が、胎児・嬰児に関する処遇の決定についてもあるのではないだろうか。この、自分と切り離せない、極めて近いような存在について、

2012-06-15 23:30:27
ひじじきき @hijijikiki

(21)立岩真也氏が「女性の自己決定権とはどのような権利か」1994年http://t.co/uzf0nMuhで詳細に論じてます。ご参考まで。長くなったので今日はここら辺で。

2012-06-15 23:30:59

●立岩真也「女性の自己決定権とはどのような権利か」から抜粋:

女性の自己決定権とはどのような権利か

http://www.arsvi.com/0w/ts01/1994r02b.htm

立岩 真也

日本生命倫理学会第6回年次大会1994.
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抜粋

 「子が登場するとは,産む者の身体において,何かが他者になっていく過程では
 ないか。「人であることはいつ始まるか」という倫理学の抽象的な議論に対して,
 フェミニズムから一貫して疑義が唱えられてきたことを考えてみよう。議論の焦
 点は妊娠中絶の是非だったから,「私の」という言葉が多用されてきた。しかし
 それは,所有を意味する言葉ではなく,やがて「私」でないものが登場すること
 を感受する「私」のことだったのではないか。」★01

■0
 以下のようなあまり明確でない感覚がある。
 ①:人工妊娠中絶に対する女性の自己決定が認められるべきだと思う。
 ②:代理出産の契約。それを全面的によしと思えない。少なくとも,例えばMの産みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。
 ③:「出生前診断/選択的中絶」に対して,それを禁止すべきであるとまでは断じられないにしても,抵抗がある。
 これらはひとまずは私自身の感覚だが,例えば女性の社会運動(の一部)でも言われてきたことである。それらが,どのようなものではなく,どのようなものなのか。一つ一つがどういう感覚に由来するのか,それだけでなく,どのように相互に折合っているのか,あるいはいないのか。

(....)

 つまり,しばしば当然の前提として語られる自己決定の正当性は,正当化されるべき自己決定がどういうものなのかは,実はそうはっきりとしていないということである。ここで,「自己決定権」の主張が,他者による支配,侵襲に対する抵抗としてなされてきたことに注意しなければならない。このような位置から発せられたから,「私のもの」と言う必要があった。しかし,それが言おうとしたことは別のことだったのではないか。★05

■Ⅳ
 私達はなぜあることをその者に委ねるのか。その者が私ではない存在,私が制御しない存在としてあること,「他者」としてあることを認めようとするからだと考える。★06
 「Aがxを思う」「Aがxをする」「Aが生xを生きている」「xがAに宿っている」「Aがxに宿っている」。Aはこの状態から自らを解き放つことができない。あるいは解き放とうとしない。Aのあり方を譲渡しようとしない,引き受けざるを得ないものとして引き受けている。私はその経験に共感したり反感を抱いたりすることはできるとしても,その経験自体を経験することはできない。
 ここまでは私達が知っている素朴な事実である。この事実に価値を付与し,規則を設定する。つまり,Aにxについての優先を与える,xがAのもとに置かれることを認めるのである。なぜなら,私がその経験を制御し,破壊することは,Aが他者としてあること,私でない存在であることを破壊することだからである。
 これはAがxを制御できるか否かとは別のことである。擁護されているのは処分権としての自己決定権ではなく,他者がそれを制御してはならず,譲渡を求めてはならないという義務,それによって同時にAに生ずる権利であると考える。自己決定権は,その者が他者としてあること,他者としてあるその者のあり方を承認することの一部である。

(....)

 β:私達は,あるものについてそれが誰の経験かという事実を認識しており,その私達が感じている差異に応じて,それを経験している者にそれに対する優先を与える,「自己決定」を認める。例えば,ある病の原因や病状について医者の方がよく知っていることはある。しかし,なお病に関する自己決定を認める。それは,その者が生と病とを経験している,あるいは身体を受容していることに求められると考える。私達は皆同じ位置にいるのではない。私達は,その違いを承認し,誰かに決定を委ねる。(→Ⅳ)
 xが存在をし始めたという経験から,私ではないものが現れることの経験へと移行する,その経過を経験する者がある。つまり当の女性において,人が誕生してくる,私ではない存在が現れてくるということが,自らの内部における経験として存在する。この経験は,他の者の経験とは異なる。この経験における差異を認め,関係の具体性においてその存在に近いところにいて,人の現われを感受しうる女性に,その判断と決定を委ねようとする,あるいは任せるしかないと考える。

(....)

こうした感覚はこの社会にも存在する基本的な感覚なのだが,この社会にあってうまく言語化されてはこなかったのだと思う。それを言語化する作業を以上で少し行った。

  


●ツイートで引用された『災害ユートピア』についての過去のツイート


上田上葉 @waferwader

"エリートや権威者たちは災害による変化を恐れるか、もしくは、その変化がカオスや破壊を引き起こすか、少なくとも彼らの権力基盤を揺るがすものと思い込む。"(『災害ユートピア』)

2011-08-15 13:52:35
上田上葉 @waferwader

"また、エリートたちは、自分たちが管理しない限り、民衆は収拾がつかない状態に陥ると信じていて、その恐怖感から弾圧的な手を打ち、それが二次的な災害を呼ぶケースもある。"(『災害ユートピア』)

2011-08-15 13:53:24
上田上葉 @waferwader

"災害は、たいていそうだが、多様な反応を引き起こす。市民の大多数は気前の良さと連帯感を発揮するが、そういった大衆を恐れ、統制下に置こうとする人々にとっては、彼らは敵意の対象だ。服従していない市民は、ファンストンの言葉を借りれば「粗野な暴徒」だからだ。"(『災害ユートピア』)

2011-08-15 14:40:18
上田上葉 @waferwader

"大きな喪失は通常、わたしたちをコミュニティから孤立させる。他の誰もその不運に見舞われていないのに、自分だけが愛する人を、家を、安全を、健康を奪われたからだ。喪失が全般にわたるものであれば、人は苦しみにより孤立することはなく、むしろ連帯感を見出す。"(『災害ユートピア』)

2011-08-15 16:56:28
上田上葉 @waferwader

"人間には文明の発達により洗練された野獣のような本性が潜んでいるというのが、一九世紀ヨーロッパの基本的な考えだったのだが、それは先住民や部族民の植民地化を正当化し、自分たちの功績を単に欲望から生じた行為以上のものであると見ようとする切望からも生じていた。"(『災害ユートピア』)

2011-08-21 08:59:12