東北の農村からの出稼ぎについて

主に北海道に出稼ぎに来た漁民について
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@bukrd405

『秋田でかせぎ漁民物語』(松村長太、昭和37年) 生活費の確保と過剰人口の消極的な対策として季節的出稼ぎという現象があるが、これは、貧乏国日本の宿命であろうか。しかし、出稼ぎというのは、いまに始まったことでなく、遠く明治以前からあった。

2012-06-12 20:49:32
@bukrd405

越後の米つきを始め、富山の薬売りもその一種といえようか。 (私注:米つきは米をつき、精白すること。若い者がする力仕事)

2012-06-12 20:51:52
@bukrd405

東北各地の漁村からの北海道方面への出稼ぎについては、いろいろな悲喜劇が語り草として残されている。春3月ともなれば、長さ40尺そこそこの川崎船に帆をかけて、遠く越中、加賀、能登、庄内浜方面から、北海道のニシンとりに行く船が、日本海を毎日毎日北に向かっていく情景を見ることができた。

2012-06-12 21:00:15
@bukrd405

出稼ぎでニシン場へ行くにしても、村の網元の船へ乗り組んで行けば、漁獲高に応じて歩合で金をもらえたが、前借りで行く者は一定期間の身売りのようなもので、ずいぶんつらい破目に陥った。食事は悪いときた上に、ニシンがとれだすと、4日も5日も寝ることができず、立ったまま眠ったり、

2012-06-12 21:07:15
@bukrd405

(承前)歩きながら眠ったりする。だから、監獄部屋の次にニシン場の“傭い”がかぞえられた。これも、小型の焼き玉エンジン付きの漁船が普及するにつれて、そのような超過重労働の場が少なくなってきている。若い連中はまず機会船を希望して、油差しからだんだん出世して機関士になった。

2012-06-12 21:09:28
@bukrd405

機関士になれば、金モールのピカピカの帽子や服を着ることができた。貧しい村の若者や娘の憧れの的となり、おおいに威張ることができたのである。

2012-06-12 21:10:41
@bukrd405

血の気の多い若者はもちろんのこと、中年の者でも6カ月あるいは8カ月もの間、温かい家庭を離れて、その間完全な禁欲生活に耐えうるということは、変人か異常な克己心のある男かどっちかでない限り不可能なものだ。出稼ぎの職場は、自然を相手にする荒っぽい漁師であってみればなおさら。

2012-06-12 21:30:51
@bukrd405

シケで仕事ができないとなると本能のおもむくまま、性欲のはけ口を求める。しかし、もともと出稼ぎしなければ食えない身分であれば、一流の料亭で大尽遊びなど思いもよらない。そこはよくしたもので、

2012-06-12 21:35:33
@bukrd405

(承前)やっぱり東北各地から売られて行った貧農の娘たちがお相手となるバラック建てのダルマ茶屋があった。ところが安物買いの報いはてき面で、十中八九は花柳病にかかってしまう。今のように特効薬のない昔は、民間療法で一時をしのぐわけであるが、ひどいのは梅毒で、

2012-06-12 21:37:05
@bukrd405

(承前)一時は治ったようでも忘れた時分に気狂いになったり、鼻がかけたりする。私たちが小さい自分まで脳梅毒で気狂いになった男女が数名いたほかに、顔の真ん中に二つの穴がポツンと開いたきり、鼻のないフガフガの婆さんが一人いた。

2012-06-12 21:39:56
@bukrd405

米、塩、薪炭に至る4カ月分と一応の炊事道具を積み込み“ながせ”(西南の季節風)を帆にいっぱいはらませて男鹿半島をめざして出かける。この10人の荒くれ男どもが食べる三度の食事のために女を連れていくわけにはいかぬ。第一の理由は性の問題であるし、

2012-06-12 21:51:19
@bukrd405

(承前)第二の理由は女にはとても木端船で日本海など乗り切れるものではない。そこで村のうちでも比較的貧しい家とか、子供の多い家庭の次・三男が一つには口減らしのためと、漁師修行のため、小学校6年を終えるか終えないかのうちに炊夫にやられる。

2012-06-12 21:53:50
@bukrd405

この新米の“なべ”(炊夫)には昨年“なべ”からあがった先輩が指南役につく。米のとぎ方から水加減、味噌汁の作り方、たくあんの切り方まで指導する。どんなに元気で気の強い子供でも、船のともが海辺を離れ、追い風に乗って船の速力が増してくると、眼にいっぱい涙をためて泣くのが普通だ。

2012-06-13 08:27:21
@bukrd405

浜に並んだ母親や弟妹が次第に小さくなり、顔形もわからなくなる。そのとき、この少年の最初の苦痛が始まるのだ。それにもまして“なべ”にとって辛いことは鍋の重さだ。しけてくると10人の飯を二食分を炊かされる八升炊きの大鍋に米を入れ、水を入れると相当の重量だ。

2012-06-13 08:33:10
@bukrd405

これを炉にかけたり、はずしたりする。大人でもちょっとこたえる。次に来る辛さは冷たさだ。毛糸の手袋とか、ゴム手袋、ゴム長のない時代だ。何をするにも手には手甲、足には藁作りの爪甲わらじが唯一の防寒具であった。雲行きが怪しくなって風が変われば、適当な浜を見つけてどこへでも船をつける。

2012-06-13 08:43:19
@bukrd405

このあと何日この浜で滞在するかわからないため、適当な場所をみつけて丸小屋を作らなければ寝泊りができない。嵐の中でその作業をして、“なべ”は炊事の仕度をいいつかる。名も知らぬ土地の浜で一番困るのは水のありかである。近くに人家がなく、水が見当たらないときは川水で米をとぐ。

2012-06-13 08:46:28
@bukrd405

川がなければ、半道も川を探しにいって水を汲んでくる。手を切るような冷たい水で米をとぐのである。手はかじかみ、足は冷える。こんなときはどんなあばら屋でも、我が家の炉端が思い出されて、とめどなく涙がわいてくる。

2012-06-13 08:51:09
@bukrd405

北海道へ着けば“なべ”もようやく涙も枯れ、辛苦にもたえるほか、乗組員は出漁の仕度で家の中にいるので、大量の飯を一時に炊く必要はなく、井戸を探す苦労もなくなる。しかし、そろそろこの時分になると男たちの気が荒くなる。もちろん月余にわたる禁欲のはけ口が変形して爆発するのであるが、

2012-06-13 08:58:40
@bukrd405

(承前)当たり散らすには持って来いの対象が“なべ”である。飯の炊き方が固いといっては怒鳴り、柔らかいといっては怒鳴るうちはよいほうで、手の早い奴は口より先にげんこが飛ぶ。十人十色、甘口あり辛口ありで、汁の加減などみんなの気にいる道理はない。

2012-06-13 09:05:31
@bukrd405

網おろしをしてニシンの走りが揚がるまで、再び“なべ”少年の泣き場が始まり、頭からコブが絶えないのである。

2012-06-13 09:05:43