誤解されてる太閤検地

まとめさしていただきました。
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まとめ管理人 @1059kanri

税金といえば、検地は基本それを行うたびに石高は上がる。これは生産性が上がったり新田が開発されたりするためだが、年貢の上がる農民にはいい迷惑だが石高の上がる領主にはいいことだ、と思われるかもしれない。しかし石高が上がれば、領主に要求される軍役の負担もまた大きくなるのである。

2012-06-30 20:11:33
まとめ管理人 @1059kanri

そう考えると朝鮮役や慶長伏見地震の最中に、同じ年に複数回検地を行ったという秀吉は、百姓にも武士にとってもマジ鬼畜なのである。そりゃ西日本中心に一国逃散状態になりますわw

2012-06-30 20:15:09
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

RTしたまとめ管理人さんのツイートは、百姓や一般家臣にとってはその通り。ただし大名にとっては事情が異なる。実はいわゆる太閤検地には、大名の側から要請されて行われているものが結構ある。朝鮮出兵のために、直轄領を増やして財源を確保したかったからだ。

2012-06-30 21:39:28
お菓子っ子 @sweets_street

@kurmacf 検地してもらって、領内の課税できる田畑を掘り出すって感じになるんでしょうか?

2012-06-30 21:45:47
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

.@sweets_street 島津の例だと、検地実施→打ち出し分が出る→全部一旦収公→家臣には元の知行高と同じ高を別の場所で与える(ようは転封)が、検地後の高なので実質は減封→差分は全部蔵入地になる、というからくりです。書くとややこしいんですが。山本博文『島津義弘の賭け』参照。

2012-06-30 21:53:01
お菓子っ子 @sweets_street

@kurmacf あー、なるほど。額面を水増しした検地前と検地後の算出石高の差を利用して、「元の領地を直轄地に組み入れて、額面の石高は同じだけど、実収が低い土地を代替地にする」ってことをしたわけですか。悪どいですねー。現代でも銀行がやりそうな手口です

2012-06-30 21:58:16
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@sweets_street そうです。当然ながら島津家臣の憎しみは検地担当者たちに向けられ…。秀吉の元で奉公をしていて、現実主義から検地を推進した義弘と、国許にいて情勢変化に疎く、保守的だった義久の関係険悪化もここに端緒があったりします。

2012-06-30 22:04:34
お菓子っ子 @sweets_street

@kurmacf 関が原前後の島津家中がまとまり悪かったのも、こういう事情だったんですね。秀吉に厚遇されてた伊集院忠棟の粛清も、こういう背景があったとすれば納得できますね

2012-06-30 22:07:33
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

相良なんかはもっと極端で、あまり知られていませんが太閤検地免除の特権を持っていました。だから検地経験なし。ところが自ら必要性を感じて、担当取次の石田三成に検地実施を陳情。今忙しいと断られると、自分で私検地を実施してしまいます。三成家臣からノウハウだけ教わって。

2012-06-30 22:08:38
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@sweets_street そういうことです。朝鮮出兵にもろくに参陣者がおらず、日本一の大遅参だったかな、義弘が嘆いているのもこのあたりに一因。逆にそうした状況を直そうと検地を二回行ったわけですが、家中にひびをいれてしまいました。穏便な検地って、難しいんです。大名が望んでも。

2012-06-30 22:13:35
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

相良家も、検地実施後にお家騒動が勃発し、二大家老のうちの深水氏が出奔しました。その後は残された犬童頼兄の天下となりますが、江戸初期にお下の乱で失脚します。その時に糾弾された理由も、検地における不正でした。相良では、検地増分のかなりの部分を犬童氏が取ってしまっていたからです。

2012-06-30 22:18:59
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

昨日ツイートした相良領が太閤検地免除だったという話。実はこれってかなり重要な問題なのです。肥後国は、佐々成政の統治失敗による肥後国一揆鎮圧後、太閤検地が入りました。それでも、相良領は検地を免除されたわけです。担当取次であった深水宗方の力量の程が窺えます。

2012-07-01 23:15:25
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

問題は、検地が完全に免除された、という点。九州では、知行宛行は面積(町歩)で行われるのが普通でした。石高制どころか、貫高制ですらない。これは相良領も同じ。それで検地免除ということは、相良領は石高制に改められていないわけです。

2012-07-01 23:17:22
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

ただ、朝鮮出兵時の軍役高などから、2万石待遇であったことは計算できます。検地無しでやったということは、完全に大づかみの数字。このことは、いわゆる「太閤検地」が、日本全国の収穫高把握を目指していたなどという議論が、完全に机上の空論であることを示唆します。

2012-07-01 23:19:23
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

これは信濃真田領も同様で、江戸時代にいたるまで、上田領は貫高制が継続していました。検地をする際にも、貫高制で行われていました。ただし、秀吉から与えられた所領高としては石高制です。ようするに、必要な時(政権とのやりとり時)だけ貫高(銭建て)から石高(米建て)に換算する訳です。

2012-07-01 23:24:02
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

真田領は、子息信幸の上野沼田領もあります。こちらは、江戸時代に石高制に移行しました。ただし、少なくとも文禄2年までは貫高制であったことが確認できます。信幸は家康の与力大名ですが、独自の貫高制を貫きました。

2012-07-01 23:27:43
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

家康は、豊臣期に関東で俵高制を採用しており、これをもって秀吉からの独立の意思の現れ、家康だからできた特別措置などという論者がいますが、その与力大名である真田信幸が貫高制を貫いていることから、この議論が成りたたないことが分かります。

2012-07-01 23:28:59
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

何がいいたいかというと、秀吉が把握したかったのが生産高である筈はない、ということです。秀吉が求めていたのは、軍役を中心とした役を賦課するための基準値でした。これは江戸幕府も同様で、役を賦課するための基準値を求めていたに過ぎません。だからこそ、検地は近世前期で行われなくなるのです。

2012-07-01 23:31:55
住友陽文 @akisumitomo

刀狩りが不徹底であったことは承知していましたが、太閤検地の実施や石高制への移行についても不徹底な部分があったり、藩ごとにその進行が五月雨的であったというご指摘。大変興味深いです。 RT @kurmacf

2012-07-01 23:36:57
住友陽文 @akisumitomo

近代社会になっても石高(定量換算による社会編成)は生きていまして、例えば民権運動や地価修正運動に動員される村々が近世期の石高に基づいて運動費の負担割合を決定していたりもする事実のことを考えると石高制も兵農分離と関わって大きな問題です。 RT @kurmacf

2012-07-01 23:37:13
住友陽文 @akisumitomo

そんなことを考えると近世社会が基本的には石高制にもとづく社会編成が基本原理であるという理解をどこまで修正する必要があるのか、大変興味が惹かれる論点になります。また僕自身も勉強してみたいと思います。ありがとうございました。 RT @kurmacf

2012-07-01 23:37:34
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

つまり太閤検地に、丈量検地(実測検地)、生産高把握という性格を持たせてしまった議論そのものが間違っていたわけです。

2012-07-01 23:37:54
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo とんでもありません。他人の研究の受け売りばかりで、お恥ずかしい限りです。少しでも議論が活発になればと念願しています。

2012-07-01 23:39:42
まんりき @manriki

@kurmacf 軍役や普請を化すための基準であって、全国で統一的にどうこうしようという構想があったわけではないのですね。近世前期で検地はなくなるそうですが、その後の各藩の耕地の拡大とかを幕府はどう把握するのでしょう。加賀藩では耕地増加分だけで大聖寺新田藩が出来たりしてますが。

2012-07-01 23:50:47
Ugata @ugata_noto

@kurmacf 教育教材では、検地というと、三成署名の物指、枡と、実測している画像が掲載されているので、頭から、耕地面積を実測し、それに対しての諸役だと思っていました。よくよく考えれば、同じ耕地面積でも、収穫量は様々ですから、全て正確に把握って実務的に難しいですね

2012-07-01 23:56:02
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