〔AR〕その8
「……これは?」 『Initial A』。単純に訳せばアルファベットの頭文字A、ということであるが。明らかな偽名、というよりペンネームであろう。送信者の表示枠の隣には、匿名を示すマークも表示されている。
2012-07-21 21:55:23>拝啓 Surplus R 様 >突然のお手紙失礼致します。 >私は、貴方様がバイオネット上にて公開している小説作品群の、名もなき一ファンでございます。わけあって本名は明かせない身分故、仮の名にて書を綴る非礼をお許し下さい。
2012-07-21 21:58:33自分でもよくわからない衝動に突き動かされ、さとりは机上の白紙を一枚取り、素早くバイオネット端末に通す。鮮やかな手つきで操作は完了し、ものの数秒で白紙の上には鮮やかな魔力文字が刻まれた。そして、改めて最初から手紙の内容を読みこんでいく。
2012-07-21 21:59:26(前略) >私はバイオネットを開始当初から利用している者の一人です。 >バイオネットのサービス開始一週間ほど経った日に、たまたま友人が共有ページから見つけてきた公開作品の中から、貴方様の小説の存在を知り、その日のうちに虜となってしまいました。
2012-07-21 22:00:23>私は訳有って、古今東西の言い伝えを蒐集する仕事をしており、他の方よりも多少なりとも物語に触れる機会が多いのですが、貴方様の小説には、かつてないほど心を揺さぶられました。
2012-07-21 22:05:29>その感動をどうにか感想という形でお伝えしたかったのですが、まだまだ未熟な私には貴方様の作品の素晴らしさを言葉にするには圧倒的に語彙が足りませんでした。今回は、ただただ、貴方様の作品と出会えた幸運を感謝するばかりでございます。 (中略)
2012-07-21 22:06:10さとりは紙を抱えたままベッドに飛び込んだかと思うと、顔面を羽毛枕に強く押しつけ、履いているスリッパが明後日の方向に投げ飛ばされていくのもお構いなしに、両足を激しくばたつかせた。今この瞬間、さとりの部屋に入室した存在がいたとしたら、おそらくそのスカートの中身は丸見えであろう。
2012-07-21 22:07:11言葉はおろか、衝動ですら表現不能なほどの、耐えがたい多幸感。それは自分の恥部をさらけだしたかのような羞恥心と気恥ずかしさにも似ている。かつてこれほど、自分は幸せとか喜びとかを感じたことがあるだろうか、とさとりは自問した。
2012-07-21 22:10:46とにかく、手紙にはさとりの書いた小説を絶賛する文言がありったけに躍っていた。あまりにも熱意が籠もったその言葉の数々に、さとりは意味もなく申し訳なさを覚えるほどだった。
2012-07-21 22:11:03何十秒かベッドの上でのたうち回ったさとりは、顔面を真っ赤にしながら起き上がり、くしゃくしゃになってしまった手紙をさらに読んでいく。
2012-07-21 22:16:19(中略) >このような素晴らしい作品を書き続けるには、如何なるものを見て、如何なる考えを巡らせていらっしゃるのか、勝手を承知しながらも興味が尽きません。
2012-07-21 22:16:31さとりの昂揚は未だ静まってはいなかったが、その一文を読んだところで、若干思考する余裕が復活していた。 「私に、興味を持っている、か」
2012-07-21 22:18:38だが、それでも、自分に関係のあるものが、少なからず好意的に認識されたと考えられる事実は、さとりにとってかつてない心境をもたらしたのは間違いなかった。
2012-07-21 22:19:21とても奇妙な話ではある。相手は顔や名前はおろか、在ることすら知らなかった、彼方の存在だ。それなのに、この充足感はいかなるものなのだろう。
2012-07-21 22:19:34