渡邊先生(心理学)と後藤先生(生物学)の科学とその境界に関するツイート

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渡邊芳之 @ynabe39

俺なんか心理学の悪口を言うために心理学をやっています。RT @daihiko: Twitterやってる理由の半分以上は心理学の悪口を言うことです。 

2012-07-27 12:07:45
渡邊芳之 @ynabe39

「○○学の悪口をいうために○○学者になる」というのは人文系ではむしろ「ありふれた学者人生」とすらいえるんだけどね。

2012-07-27 12:15:50
渡邊芳之 @ynabe39

そりゃあ理系にはいないでしょう(といいつつ実際には理系にだってそういう人はけっこういることを知っている)。

2012-07-27 12:48:29
渡邊芳之 @ynabe39

やはり理系は「自己相対化装置」を外部に持っていることが人文系との最大の違いだ。研究者個人が自己相対化する必要がないのだから「自分のやっている学問」を批判する必要もない。

2012-07-27 12:51:25
渡邊芳之 @ynabe39

でも原子核物理とかやっている人は多少は自己相対化も必要なのではないかな,などとちょっとまじめに考えてみる。

2012-07-27 12:57:03
後藤 健 @123_euglena

ちょっと休憩。こういう単純な割り切り(断定)を自信をもってできるのも「真実」の背後の実体によって検証されずに済む文系の特徴かも、と文系的に断定してみた。理系は(魂としては)常に慎重だ QT @ynabe39: 理系は「自己相対化装置」を外部に持っていることが人文系との最大の違い

2012-07-27 14:02:58
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena ここでいう「自己相対化装置」とは思考とか態度の問題ではなく「実験と統計とジャーナル共同体」です。これは科学史科学論的にも重要な問題。

2012-07-27 14:05:39
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「真実の背後に常に実体がある」わけではありません。「背後に実体のある真実」だけを扱おうとするのが近代の自然科学ですから,それが取り扱える「真実」の範囲はおのずと限定されます。その意味で自然科学が「慎重」なのは当たり前。

2012-07-27 14:08:24
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「ジャーナル共同体」というのは科学技術社会論でよく使われる言葉で,「ピアレフェリーによる論文審査とジャーナルへの掲載によって研究の価値が決められるシステム」とそれを軸に発展する研究者の共同体のことです。まあ「学会」とはおよそ重なる。

2012-07-27 14:11:31
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 極端な話,研究者がどんなにバカなことを考えてもそれがデータと統計とレフェリー制度によってフィルターされる種類の学問と,研究者自身の自己批判がないとバカなことがそのまま出ていってしまう種類の学問とがあるわけです。

2012-07-27 14:16:33
後藤 健 @123_euglena

それは真実の定義の問題かな。参照すべき「何か」がないような「真実」って何でしょうか? QT @ynabe39: 真実の背後に常に実体がある」わけではありません。

2012-07-27 15:57:49
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「物理的なレファレントがあるものだけを事実とみなす」のが自然科学だと思います。おそらくそれによって世界にある「事実」の圧倒的大多数は自然科学の対象ではなくなる。

2012-07-27 16:01:02
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「自然科学が対象にできることだけを真実と考える」のだから「背後に実体のあるものだけが真実である」のは当たり前です。しかし自然科学は学問のごく一部に過ぎないわけです。

2012-07-27 16:04:36
後藤 健 @123_euglena

それはちょっと違うかも。その意味での自己批判はどのような分野であれ、他者による批判「以前」の問題ではないかなぁ。研究の質を他者に委ねていいのか?QT @ynabe39: 自己批判がないとバカなことがそのまま出ていってしまう種類の学問とがあるわけです。

2012-07-27 16:07:30
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 僕の質問は、参照すべき「何か」がないような「真実」って何でしょうか?ということなのですが、、、

2012-07-27 16:10:13
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena そういう「研究者の指向性や意識」の問題について言っているのではありません。

2012-07-27 16:11:16
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena そのレファレントが物理的な意味での「実体」を持つ必要などない,という話です。

2012-07-27 16:12:00
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 逆に「事実の参照先であること」であることによってそれが「実体」とされるのであればそれは「実体」という言葉の雑な使い方であるように思います。

2012-07-27 16:13:21
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 う~ん、難しい話だなぁ。僕の指す「何か」=非物理的(非自然的)な実体、と理解していい?

2012-07-27 16:16:30
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「非物理的なもの」だったらわざわざ「実体」なんて言う必要はないだろうと思います。

2012-07-27 16:18:47
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 基本的に「存在」そのものに「実体としての存在」と「関係的な存在」があるのだろうと思います。たとえば「行動」というのは関係的な存在だと思いますし「こころ」もそうだと思います。もちろんその関係を支える機構の各要素には物理的な実体があるわけですが。

2012-07-27 16:21:26
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena たとえば「心臓」が実体として存在するのと同じような意味で「こころ」が実体として存在すると考える人はいないですよね。

2012-07-27 16:22:28
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 だったら、「何か」を何というのですか?というか、「自然」という言葉の指す範囲も、ずれているよね。いずれにせよ、渡邊さんにとっての科学以外における「真実」について、直球で答えてみてください。参照する何かがなくて、どうして「真実」を語れるのか、僕にはわからない。

2012-07-27 16:24:17
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 言葉の意味については「その言葉の実際の使用」が参照先です。「事実」については「それに基づいて人が行動すること」が参照先です。「真実」という言葉は「価値づけられた事実」を意味するもので,何が真実かは個人に依存します。

2012-07-27 16:30:16
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