正字正假名に關する話(平成廿四年八月十六日)
「かつて仮名は発音と一致していた。現代仮名遣いはそうした"伝統"に回帰するものである」と現代仮名遣い擁護派は言ふけど、ほんとうにさうなのか。
2012-08-16 19:45:01「旧字旧仮名は厨二病、懐古趣味『だからダメ』」と言ふ人もゐれば「旧字旧仮名は厨二病、懐古趣味『だからいい』」と言ふ人もゐる。
2012-08-16 22:05:28@osito_kuma 昨日のツイートは「旧字旧かな=懐古」という主張ではありませんので、そこだけは誤解なさらぬようお願いします。私は「日本語話者の80%が旧漢字にすべきと決めて移行するなら(…)従う」という主張ですし、国語改革問題も幾分かは存じております。その上での話でした。
2012-08-16 22:07:23「現代仮名遣」は理窟で説明できない部分が多すぎて、生れつき精神に障礙のあるやうな人には却つて受容れられないものであるさうだ。
2012-08-16 23:01:16寧ろ理論だの何だのを驅使できる「頭の良い人」ほど不合理な「現代仮名遣」を強引に合理化して受容れてしまふものであるらしい。
2012-08-16 23:02:02「せんせい! なんで『ぼくは』の『は』は『ワ』ってよむんですか?」 「そういうきまりだからです」 「じゃあ『ぼくわ』ってかいてもいいんですか?」 「『ぼくは』のときの『ワ』は『は』なんです。そう言うきまりなんだから、そう書きなさい」
2012-08-16 23:05:57旧字旧かなクラスタの熱い主張をちょっと読んでいた。私はああいう人ら好きだ。現代かなが絶対だとも全く思わない。元々仮名は漢字(=真名)から来たんだから表音文字でもないだろうし仮名が音韻と一致する必要もない。でも「歴史的仮名遣いに戻そうという一部の運動」は効果がないとも思っている。
2012-08-16 22:16:46旧かな/現代かな押しをするような情熱ある人は好きだが、旧かな/現代かな押しの運動は嫌いだ。あれができるのは「生まれ育ちから言語能力に優れた人々」だが、言葉はそうでない無能のためにもある。無能と有能が同じ土俵で殴り合える。そういう混沌を飲み込めるのが自然言語の凄みだと考えるからだ。
2012-08-16 22:25:40優れた人間に統御された綺麗な言語が好きなら、たぶん数学とか論理学をやったほうがいい。エスペラントやロジバンのような人工言語でもいい。自然言語はそういうものじゃない。もっと汚いものだ。
2012-08-16 22:37:38@dosannpinn 言語自體は統御されてはならないものであり、だからこそ「頭の良い人」によつて強引に押附けられた「現代仮名遣」のやうな人工的な表記こそ排除されるべきだと思つてゐる。
2012-08-16 23:03:18@dosannpinn 「現代仮名遣」は「表音主義」なるイデオロギーに基いて創作された人工的な表記で、自然に成立したものではありません。歴史的かなづかひは自然に成立したものなので、私達歴史的かなづかひの使用者は支持してゐるわけです。
2012-08-16 23:04:16@dosannpinn 「現代仮名遣い」はまさに日本語を「優れた人間に統御された綺麗な言語」にしやうと云ふ目論見から作られたものです。だからぼくらは賛成できない。
2012-08-16 23:01:06何故か「旧かなに戻そうとしてもムリじゃないの」って言うと「現代かなが好き」ってことになるけど、これは誤った二分法だよ。好きだろうが嫌いだろうが、その中で生まれたら使わざるを得ないのが母語だ。何かカッコイイ雰囲気だからとドイツ語母語話者にひょいと変わるってわけにはいかない。
2012-08-16 23:16:33. @nozakitakehide @SatoSuguru @に感謝です。お二人とも似た主張なので、まとめて返事を失礼します。ですから私は「現代かなが好き」というわけでは全くありません。そして、昭和の先生方と定家先生や契沖先生と、そういう意味では同じだと思うのですが如何でしょう?
2012-08-16 23:09:32@dosannpinn 思ふんですが、江戸時代より前の人は皆「言葉の書き方には決りがある」つて常識を持つてゐたんですよ。それが明治以來なくなつた。代りに「言葉を書く決りは今生きている人間が勝手に決められる」と云ふ知恵を持つやうになつた。
2012-08-16 23:14:22@dosannpinn 「今生きている人間の事は今生きている人間が自分で決める」と云ふ發想は、近代以來の發想で、さう云ふ發想の下で「現代仮名遣」のやうな概念も發生してきます。「現代仮名遣」に今抵抗してゐる人は、そもそもの近代の發想それ自體に抵抗してゐるわけです。
2012-08-16 23:16:12@nozakitakehide なるほど、そういう思想があったのですか。それなら、定家先生も契沖先生も、仮名遣いを発案したとき「今生きている人間が自分で自分の言葉を決めた」のではありませんか。思った/思わなかったという信念の話ではなく、「仮名を定める」という実行動においてです。
2012-08-16 23:19:35@dosannpinn 定家も契冲も、無から假名遣を創作したのでなく、過去に存在してゐたが忘れ去られてしまつた書き方の決りを、何とか思ひ出して、今に甦らさうとしたんです。
2012-08-16 23:22:00@nozakitakehide うーん、私には、無数に「過去に失われたもの」の中から、「恣意的に」「自然で正しいとおもわれる」ものだけを蘇らせることは、「新しく作る」とどう違うのでしょう。古代日本人が中国語を輸入できたなら、昭和の人間がローマ字も輸入してよいのではありませんか。
2012-08-16 23:28:26@dosannpinn 失はれてはゐませんよ。忘れられただけです。そして、定家にしても契冲にしても、恣意的で作爲的な創作はしてゐません。それを疑ふ現代人の感覺がをかしいんです。
2012-08-16 23:41:28@dosannpinn 日本語の語の形は、現代でも「現代仮名遣」の背後に存在してゐます。「現代仮名遣」はそれを發音の蔭に隱してゐるんですが、昔は忘れられてゐたんです。けれども、昔の日本人は「語は本來の語形に從つて書くものである」と信じてゐた。ただ知識が失はれてゐただけです。
2012-08-16 23:44:07@dosannpinn もともと「語は本來の語形に從つて書いてゐた」ので、それを定家も契冲も思ひ出さうとしたわけです。
2012-08-16 23:45:27@dosannpinn 定家の假名遣や契冲の假名遣に從はなかつた一般の人でも、やつぱり「発音通りに書く」なんて意識は存在せず、「何處かにあるであらう正しい語の形」に似せて書かうとしてゐたんです。江戸時代でも、ちよつとでも文字を習つた人は皆「それつぽい書き方」をしてゐます。
2012-08-16 23:46:47