僕の幸福論
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重要なのは今を生きることであり、ムルソーのように真理に対して誠実であるためには、最初から理想化を望むべきではない。理性は世界を退屈にする。
2012-08-20 00:35:14ムルソーやロカンタンが拘ったことに対して、多くの人間が無関心や嫌悪を決め込み取り合わない。或いは、抑、其れを思考の俎上に上げることすらしない人間が多い。此等の小説は、子供の頃、何故大人たちが胡散臭く輝きを失った存在に見えたのかを思い起こさせる。
2012-08-20 00:41:43文化によって思考停止し、不合理な思考パターンが刷り込まれるのだとしたら、実存主義文学こそが、それらを検討し唾棄し、新たな、それでいて根源的な地平を開くことが出来る。理性による絶望は不完全だ。絶望、希望は複数ある視点の1つに過ぎない。
2012-08-20 01:07:05ソーシャルネット、マイクロブログが人間の一生を包括する長さに至ったら、恐らく小説や、対話の意味は益々薄まっていくだろうと思う。それが消費物として流通することには人間の一生はまるで消費されつくされ死に絶えるように思う。現在はまだフィクションの段階でしかなされてない。
2012-08-20 01:22:12そうしたとき、人はきっと、次の瞬間や未来に祈る他に生きる術を失うだろう。これは文学的比喩じゃなくて、私の演繹する限りの消費の極だ。
2012-08-20 01:23:40啓蒙は設計主義的にはなされないと思うが、(かなり怪しいが)仮に全体的には時代の進展に伴って進行しているとするならば、物質的な資源の問題の他に哲学思想的に人間の資源が枯渇し死に絶えることもあり得る様に思う。エクストロピアでは人は自殺に近しい選択をするかもしれない。
2012-08-20 01:29:06@Kaya3728 過去から未来を予測するのを止め、理性によって今此処を分析、抽象的統一化するのを止め、今現在の経験に対して新しいものを見出そうとする人も一定数いるのではないでしょうか。僕はここ数日のツイートで其れを即時的博物学的好奇心と呼んでますが。
2012-08-20 01:30:14@imaginaryset それを「次の瞬間に祈る」と殆ど同じ意味で使ってるよ。次ってのが不適切かもしれないね。瞬間毎とかのほうがいいかも。
2012-08-20 01:32:34@imaginaryset 期待するしかない。機械論的に演繹する場合はそうなる。但し経験が自己というか判断を肯定する限りその段階には陥らずに、キルケゴール的な意味での絶望に至る過程を反復する。経験が否定した場合、あるいは消費され尽くした場合は次の瞬間に白い鴉を期待するしかない。
2012-08-20 01:41:57即時的博物学的好奇心を「祈り」だとすれば、其れは姿勢やスタンスというよりも「宗教」に属するな。神聖不可侵、絶対不迷。好奇心こそが神だ。
2012-08-20 01:44:00@imaginaryset 因みに、理性を放棄するわけではないと思う。というか、理性と感情も本質的には同一で、主観的な範囲では放棄かもしれないがその行為は理性的になされるので分別は明確ではない。知覚や瞑想それ自体は非常に理性的な行為でもあると思う。難しいが。
2012-08-20 01:52:47@Kaya3728 キルケゴール的絶望反復といのは、弁証法的に行き詰まった後に、全く別の視点から弁証法を初めてまた行き詰るまで繰り返し、また別の視点へ、という意味でしょうか?ブルーハーツが救いになりますね。
2012-08-20 01:53:09@imaginaryset そうだね。経験主義的に弁証法を反復することのつもりで利用してる。利用しない方がいいんだろうけど説明には必要だからね。
2012-08-20 01:54:24@Kaya3728 成程。主観において感情も合理的ですね。理性というより、過去の事象から導かれた思考パターンと価値観を廃し、新たな頭の使い方を発見するという方が適切です。
2012-08-20 01:58:57@imaginaryset まぁ弁証法ってそうだよね。ただ、そもそもあらゆる段階の絶望は受動的に行われるわけだから全部同じといえば同じだし彼の言っていることと殆ど同じだな。
2012-08-20 02:01:43@Kaya3728 其れもそうですね。瞑想やスピリチュアルや自己啓発も、今までしてきた哲学が機能しなくなったから、検討してみようと思ったわけで。彼って誰のことです?
2012-08-20 02:04:27@imaginaryset というか、思考は能動的な行為じゃないんだよ。僕は機械論者だからね。だからこそ次の瞬間に「祈る」。過去から演繹される物以外は祈るしかないから。彼;キルケゴール。
2012-08-20 02:07:21@Kaya3728 能動と受動は客観的には差異が存在せず、現実は純粋論理学のように一意に決定するから、其の前提の下で、自分の思考と知識は完全なものでないと「自覚する」=「祈る」という訳ですね。サルトルが地と図を用いて決定論を反駁したロジックに基づいて。
2012-08-20 02:16:11@imaginaryset 機会論者だけど明確には決定論者じゃないかも。まだ確かなものじゃないけど主観にしろ客観にしろ論理学的に決定されうるものじゃあないと思う。完全には決定していないからこそ祈る。まぁあやふやだそこら辺は勉強不足。あと寝る。脳味噌働いてない。
2012-08-20 02:21:24