- ttt_ceinture
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@omnivalence 連続律に関しては、以前お話ししたように、ライプニッツにおける「自然において」という文の意味を広くとる必要があるのだろうと思います。まだ、整理しきれておらず、手つかずの箇所ばかりで、やり取りになっていなくて、申し訳ないです。
2010-07-18 23:16:17あ、そうだ。それで連続性と非連続性、そして西田も読んでいるというなら、ちょうどいいや。最晩年の「絶対矛盾的自己同一」のあたりをそれと繋いで同時に考えるといい。統一性が出てきます。
2010-07-18 23:26:32@omnivalence 西田は今、『場所』を読んでいます。来週の学会の為に、『善の研究』も合わせて読み返しています。一段落しましたら、『絶対矛盾的自己同一』と、『歴史的世界に於いての個物の立場』も手を伸ばして、みるつもりです。
2010-07-18 23:40:17@omnivalence 「物理学の誕生」でも、ルクレティウスと似ているという感じで、ライプニッツが引き合いに出されています。クリナメンに関しては、ライプニッツも似たような概念として傾向性という言葉を使いつつ、全くの偶然はダメなので、充足理由を絡めているような印象です。
2010-07-18 23:29:36@cosmogarden 『物理学の誕生』、読み返すとやっぱり楽しいなぁ。。中沢新一さんが翻訳することになっていたらしいけど、「俺のフランス語じゃちょっと無理」って言ってた。
2010-07-18 23:35:35@omnivalence 日本語を見ながら、気になる個所をフランス語で見ていましたが、かなりスピード感のある本のような気がします。フランス語のテンポも何か、他の本とは少し違う気がします。中沢先生は、翻訳するの、諦めたのですね……
2010-07-18 23:42:44人間の歴史における、そして多分、ヒト科の進化におけるもっとも革命的な出来事は、言語の中での、かつ言語による抽象性や一般性の獲得であるというよりは、
2010-07-18 23:40:26われわれが家族、集団等のなかで取り結ぶ、そしてそれらとわれわれにしか関係しない諸関係からの引き離しであり、その結果として、この総体の外部のあるものに関して、おそらく漠然としてはいるが急に特定的になる合意に到達することである。
2010-07-18 23:42:57この出来事の以前には、おそらく存在していたのは諸関係の網の目だけだったのであり、(中略)ところが、突然あるものが、何者かが網の外部に出現するのである。
2010-07-18 23:44:51西田のいう「外延的限定」をパースと結びつけて発展させるとか、道具論とか、色々アイデアがあったものを休みの間に膨らまさないと。。
2010-07-19 21:11:02「三歩進んで二歩下がる」じゃないけど、マイナーな人を語ろうとするとメジャーな人を二人くらい語らないといけなくなるんだよね。そうしないと、「隙間」が空かない。。
2010-07-21 11:21:30西田って、冷たくて固いイメージを持っているんだけど、でも、所々そうじゃない部分がある気がする。個人的に好きな文章とか、考えていてふと思った。
2010-07-21 11:35:42@cosmogarden 鶏頭の 十四五本も ありぬべし (子規)。「ありぬべし」がこの句の肝だと吉本隆明が書いていたけど、西田の「なければならない」にもこの「ありぬべし」に通じるものを感じる。
2010-07-21 12:04:06@omnivalence 吉本隆明の言及も、子規の方も知らなかったです。西田に関しては、まだ感覚ですが、そんなに強い拘束は感じません。「~でなければならぬ」という文句は確かに多いですね。「ありぬべし」は強い推量でしょうか?古典が苦手だったので……
2010-07-21 12:15:02@cosmogarden 病床六尺の世界から、庭の鶏頭が少し見えているか、あるいはまったく見えていないかなんだけど、ここは十四五本ばかりあるんじゃないといけないね、という・・・。決めつけちゃっている感じがいいんですよ。
2010-07-21 12:19:57一二本しか見えていないんだけど、本当は十四五本あるような鶏頭というのがあって、自分が見ている場所が、そういう場所に「包囲」されている。矛盾的な言い方だけど、その「包囲されている開放感」っていうのがいい。
2010-07-21 12:28:36@omnivalence 十四五本あるんじゃないといけないね、決めつけている、感じですか……日本の詩句などは全く疎いです。西田、ライプニッツを読んでいて思うのは仮定として設定しているものが、気づくと「~でなければならぬ」みたいな感じで書かれている気がします。
2010-07-21 12:28:03「包囲している」鶏頭っていうのも、フィクションなんだけどそれが能動的な存在感をもって迫ってくる。。環境と自己がそんなふうに逆転する感覚がいい。芭蕉でもそんな句があって、「佐渡に横たう」「天の川」なんていうのも、一種の決めつけによって表現された自然=環境が能動化してくる契機がある。
2010-07-21 12:35:36@omnivalence 特にそれに拒否感は感じませんが、ライプニッツはこうならばこうだろう、という世界を作り上げて、書きだしている気がします。
2010-07-21 12:29:10