- jonathanohn
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@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami まったく同感ですわ。袁尚も優れているかはいまいち本人の人物像がわかるエピソードが少ないですが、少なくともあの不屈ぶりは賞賛していいと思います。
2012-09-10 00:42:35@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami おそらく郭図は袁紹の側近で戦略を論じたり、使者に立ったりする仕事だったんでしょうね。官位で言うと将軍府の従事中郎あたり
2012-09-10 00:43:29@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 袁尚は切り口次第で悲劇の不屈の公子として描く余地がありますからのう・・・
2012-09-10 00:43:42@sweets_street @Jiraygyo 袁家が上手くやるには、さっさと長男を暗殺しておくべきやったんやろか
2012-09-10 00:45:05@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 審配と離れて単独で軍を指揮して袁譚を討伐に向かってるし、それなりの器量がある人物ではあったんでしょう
2012-09-10 00:46:24@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 潁川系の人たちは曹操がそもそも領しているし、荀氏など影響力大きい人達みんな曹操についてるし、ましてや官渡のあとでは立場ないですものね・・・
2012-09-10 00:47:13@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami んー、潁川の人士が袁譚についていたから、袁譚も早々に降る気になったというのはあるでしょうねえ。
2012-09-10 00:48:19@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 潁川系は韓馥の客分から袁紹の配下にスライドした人たちだから、冀州系が掌握する軍隊や行政機構への影響力が少なかったんだろうと思います
2012-09-10 00:51:05@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 沮授亡き後は冀州系は審配が掌握しますしのう。袁家の大本流審配と参謀と実務の中心の逢紀に組まれたら、まあ、対抗手段ないですわな。
2012-09-10 00:53:43@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami そうしたら、青州で軍隊抱えてる袁譚を頼るしか無いですね。幽州の袁熙と并州の高幹は後継争いに名乗り上げるような色気はないし
2012-09-10 00:56:14@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 高幹と袁熙は普通に袁尚支持しとりますしね。袁熙は最後まで一緒だったし、高幹は袁尚の支持で関西に侵攻しているし。どんだけ袁譚味方しねーんだという(笑)
2012-09-10 01:00:17@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 袁譚はフツーに人望が無かったんでしょう。青州でのデタラメな治世を見るに統治能力がないし、優柔不断で頼りないし
2012-09-10 01:01:45@sweets_street @Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 官渡での大敗で求心力失ったかもしれませんね。他の兄弟は任地で守備、留守居役で、責任を袁紹に求められなければ一緒にいた袁譚の立場が悪化しますし。
2012-09-10 01:06:23@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 高幹さんはこれはこれで割と面白いですな、馬騰・韓遂・匈奴と組んでの侵攻とかワクワクする。まあ、鍾ヨウの相変わらずな馬家操縦が発揮されるんですけど(笑)
2012-09-10 01:02:46@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 曹操に降伏したあとも并州そのまま任されていたのは、高幹の勢力基盤がしっかり根付いていたんでしょうな・・・本人も文武に優れていたなんて書かれているし。
2012-09-10 01:04:16@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami うーむ、こうして考えると曹操が袁家滅ぼすのに『8年もかかった』ではなく、「よく8年で終わったな」って感じですよの。
2012-09-10 01:06:49@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 仲長統にボロクソ言われてるけど、士を好んだという評価があるから幕僚を大勢抱えてたんだろうし、統治能力や外交能力も相当高いですね
2012-09-10 01:06:55@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 再起しての反乱も鍾ヨウ・李典・楽進といったところを十分苦戦させとりますしなあ。曹操も『苦寒行』書くほど辛い遠征だったですしね。高幹征伐。
2012-09-10 01:11:17@bb_sabure @Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 官渡戦を指揮した三人の監軍の中で唯一生き残った郭図が袁譚と組んだのも、官渡の敗戦責任で失脚した者どうしだったのかもですね
2012-09-10 01:11:33@sweets_street @bb_sabure @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami なるほどね。敗戦責任者がみんな集まってくれれば、求心力維持しやすいですわなあ。
2012-09-10 01:12:36@Jiraygyo @sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 劉表と劉備が袁兄弟の喧嘩を憂う気持ちが理解できますね。「協力してれば曹操に負けないのに!」っていうヤキモキ感。
2012-09-10 01:12:47@Jiraygyo @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 曹操の出馬を仰がないと倒せない高幹の強大さと、自ら出張ったら大抵の相手にはカタを付けられるという曹操の切り札ぶりの2つのことがわかりますね
2012-09-10 01:14:42@sweets_street @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami 本当、曹操自ら出陣したときとそれ以外の落差スゴイんだよねえ。曹操陣営の強みであり弱点。
2012-09-10 01:15:43@Jiraygyo @bb_sabure @Historian_nomad @Erzherzog_Este @F_no_kami halyさんの御指摘を頂いて即席で思いついたのですが、我ながら良い思いつきではないかと思っています
2012-09-10 01:16:50