いかにも「これは客観的な事実である」かのように書かれている文章に主観が混じってるのを見つけると、ん?ってなる。だから、主観は主観として書いていきたいと思う。(もちろん、これは私の意見だから主観である)
2012-09-26 23:00:41そもそも人間の認識関心からまったく独立の、「裸の事実」なる客観性など想定しがたいものである。人間によって語られる以上、どんな事実もつねにすでに人間的な意味を持たされている。RT>
2012-09-26 23:04:09@asakawww Twitterだと、そのへんを全く考慮せずに「客観的」事実がはびこっているように思うのです。そのようなツイートの、これが事実なのだ、という主張にたまに嫌悪感を感じる。
2012-09-26 23:23:18@chikalin822 その意味で、ぼくのツイートもまた中立無比の「客観的」つぶやきではないわけですが。。。哲学専修の身としては「客観性」という言葉の使い方に、ますださんと同じく強い違和感を覚えますね。もちろん「間主観性」という意味での客観的正しさを認めないわけではありませんが
2012-09-26 23:36:45@asakawww これを考え始めたきっかけに、自分の書いたレポートにいかに主観性が混じってるかを知ったことがあって。(しかも他人に指摘してもらうまで気がつかない)そのときに、完全なる客観というのは不可能でも、それに近いものを目指すような学問がしたいな、と思った!
2012-09-27 00:16:20@chikalin822 はあはあ。誰かに読んでもらうってやはり大事ですね! 客観性といえば、文化人類学の「民族誌の記述」は、いわゆる客観的な事実としての民族を描きだすことを目指しているって理解でよいのでしょうか?
2012-09-27 00:21:50@asakawww 今勉強しているのはいかに客観的に記述するかということ。でもそもそもフィールドワークで得るもの(発言・語られるストーリー)なんて主観の塊なわけで、それを客観的に記述するってどういうこと?というところもあって。まだまだ私が勉強不足なので何とも言えません(-ω-`)
2012-09-27 00:32:27@chikalin822 なるほどねー。しかもその主観の塊が、対象としている民族・記述者においては揺るぎないリアリティを持っている。僕はリアリティが生成される過程に興味がありますね。その意味で、タウシグの「フィールド・ノートで写真よりドローイングを重視する」という方法論は面白い。
2012-09-27 00:43:34ぼくにとっての「文化」は西田哲学のそれだし、民族学のイメージは、柳田國男の「民俗学」。だから文化人類学の講義は必然的にそれらとの比較としてしか聞けないし、テスト答案でも「絶対矛盾的自己同一」とか書いちゃったりするわけだ。
2012-09-27 00:50:58この頃、哲学関連のことをつぶやくと、僕のしょうもないツイートでも、(プロフィール上は)女子高生のフォロワー様にふぁぼってもらうことが時折あります。ありがたいことですが、最近哲学は現役jkの間では静かなブームなのでしょうか。
2012-09-27 01:10:59さっきのjkにてつがく流行ってんの的なツイートをふぁぼってくれた方の性別が気になってしまう僕なのである(笑) おお、なんと世俗的な私。
2012-09-27 01:25:48TLを見ていると、男子校時代の「女子」の固定観念がぐらぐらと揺り動かされ、新たなものの見方を獲得することができるようになる。
2012-09-27 01:33:06べ、べつにフェティッシュ化していたjkたちのアウラが音を立てて崩壊しているかのようだ、というようなことを云うつもりは毛頭ないのである。
2012-09-27 01:35:29