障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?

「障害者に必要な配慮をしないのは差別」と記載された、内閣府の「障害者に関する世論調査」の記事について。障害者は支援に感謝するべきか否か、また、ハシゴでなく階段を設置するのは健常者への「支援」であるように、健常者は支援されていることに気付いてない?、などの論点を巡るやり取りをまとめました。 ●ツイートで引用されているまとめ: 「「3つの自立」と「障害の社会モデル」について」http://togetter.com/li/363509 及び、その関連するツイートを加えました。 ● まとめ作成後のやり取りを追加しました。更に追加しました。 続きを読む
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tangledtale @exactnessisF

「健常者であるということは、自分が何にも依存していないと錯覚している状態のこと。“障害者”というのは、「依存先が限られている人たち」のこと。世の中の多くのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れている」 http://t.co/H4O9Ciia4M

2013-03-02 09:16:55
ひじじきき @hijijikiki

『自立は、依存先を増やすこと/健常者はさまざまなものに依存できて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚‥“健常者である”とはまさにそういうこと』http://t.co/taOyDzDEOk

2013-03-10 22:38:48

 
 

 ● 熊谷晋一郎氏のインタビュー記事:

 「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」

http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm
TOKYO人権 第56号(平成24年11月27日発行)

(....省略....)

  一人暮らしを始めたいきさつは?

 小学生の頃、ふと、「親が先に死んでしまったら、自分は生きていかれない」と気づきました。当時の私は、生活全般、食事をするのも学校に行くのも、何でも親の介助を受けていましたから。この不安は年齢を重ねるにしたがって大きくなっていきました。親なしで暮らせる“実験”を早めにしておかないとまずいと思っていました。それで、高校を卒業し東京の大学へ進学するのをきっかけに親から離れるというのが、最初で最後のチャンスになるような気がしたんですね。親は当然、猛反対しました。うまくいかなかったら帰ってきなさいとも言っていましたが、自分の中では、ダメだったら実家に帰るという選択肢は無かったですね。

 地域で一人暮らしをしている先輩障害者の姿を、子どもの頃になんとなく見ていたこともあって、「自分にもできるはずだ」という確信があったのも大きかったと思います。具体的にどうやっているのかは分からないけど、明らかに自分より障害の重い人が一人暮らしできている。その事実が背中を押してくれました。

 一人暮らしを始めて、まず困ったのはトイレでした。最初はなにも手を加えていないトイレで、介助してくれる人もいなくて、失禁してしまった。でも、こう体を動かしたらうまくいくんじゃないかとか、ここに手すりを付けたら使えるんじゃないかとか、試行錯誤していくのは楽しい実験でしたね。私も物に合せて動きを変えるし、物も私に合せて形を変える。どちらかが一方的に譲歩するんじゃなくて、物と私が「互いに歩み寄る」。一人暮らしの体験は、生まれて初めて世界と直接交渉することができた、そんなわくわくする感じがしました。それまでは世界と私の間には、いつも親が挟まっていて、「向こう側がよく見えない、じれったい!」みたいな感じでしたからね。

  “自立”とはどういうことでしょうか?

 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。

  最近の障害者介助について、どう感じていますか?

 昔に比べて障害者の介助の現場は「メニューが増えた」と思います。以前は制度自体がなく、生活を組み立てるときには限られた人・ものを活用しながら、なんとか手作業で作り上げていく感じでしたね。それに比べると、自立支援法成立以後はそういったことが自動化して、制度に乗ってさえしまえば介助者を見つけるのには苦労しなくなりました。

 ところが、震災が起きたときに誰も様子を見に来てくれないとか、あるいはそこまで大きいことでなくても、失禁したときに介助を頼もうにも誰にも電話が通じないということがこれまで何度もありました。失禁は不測の事態の顕著な例で、なるべく早くなんとかしたいわけです。それなのに、そういう時にかぎってシステムが全然機能しない。以前に比べて、不測の事態に融通が利かなく、使い勝手が悪くなったと思います。

 システムに乗らないものを許さない風潮というか、制度どおりにおこなわれているかどうかを監視するのに、現場が忙殺されているような状態です。それに、あらかじめ決められていること以外は許されないので、介助者との人間関係が深まらなくなった感じがします。心の通じない相手がしてくれる介助は痛いから、怖いんですよね。

 何でもカテゴリー化して制度を作っていくだけでは、制度に乗りきらない人たちが永遠に生み出され続けていくことになります。首尾よく乗れた人も窮屈に感じるんじゃないでしょうか。メニューがそろって自己選択できるのだけど、いったん選択するとそれに従わざるを得なくなるような圧迫感があります。障害者の自立生活運動では「施設から地域へ」がスローガンだったのに、窮屈な施設から飛び出した先の地域が“ 施設化”していた、という感じです。

 一言で言うなら「揺らぎが無くなった」「揺らげなくなった」ということでしょうか。そしてそれは、世の中全体に着実に浸透しているような気がします。ガチガチに固定されているシステムは、揺らぐことができる「余白」、その場の状況に応じた選択・決定を可能にする余地や余裕がないために、リスクが高く、効率も悪いものです。「揺らぎ」がなくてはイノベーションも起きません。こういった「揺らぎ」や「遊び」という要素をどう維持していくかというのが、今後世の中のことを考えていく上での重要な課題になっていくだろうと思います。

(....省略....)
 

 

 

 
 


 
 

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●  まとめ作成後のやり取り。
★ 読みやすさのため、以下のツイートの順を一部変更しています。

ひじじきき @hijijikiki

@gotoledex @LonlySquib @Syuto_Kaito_Mom @kurizunb ツイートを使わせていただきました⇒「障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?」 http://t.co/oXvCw1mZ

2012-10-29 22:23:07
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki あら、それは大変失礼いたしました。今日は帰りが遅いことが分かっていたので、私をフォローして下さってる方に見苦しい長文の連続を見せるのも申し訳ないと思い、10時頃に削除してしまいました。

2012-10-30 03:48:12
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki @gotoledex @Syuto_Kaito_Mom @kurizunb 正直あまり嬉しい行為ではありませんが、構いません。ただタイトルと序文に対して少々。

2012-10-30 03:55:09
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 私を含め障害者が支援に感謝すべき、という主張はどなたもされていませんので、タイトルの問題提起分は適切ではないように思います。また、非障害者へ対する支援として、はしごと階段を持ち出されていますが、はしごというのはあまりに恣意的な表現に思えます。

2012-10-30 03:57:01
ひじじきき @hijijikiki

.@LonlySquib 「はしごと階段‥あまりに恣意的な表現」>この「はしごと階段」の例のどこがどのように「恣意的な表現」なのでしょうか?ご説明願えませんか?

2012-10-30 20:33:33
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 舗装した道路は非障害者に対する支援でしょうか?はしごが階段で恩恵を受けるのは、非障害者のみでしょうか?スタートの時点で望む結論のために偏ってる印象があります。ご一考下さい。

2012-10-30 03:58:20
ひじじきき @hijijikiki

.@LonlySquib 「はしごが階段で恩恵を受けるのは、非障害者のみでしょうか?」>階段を使えない人(主に障害者)は“恩恵”を受けないでしょう。仰りたいことがよくわからないのですが。

2012-10-30 20:34:40
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 消えてしまった、で終わるのは申し訳ないですので、違った視点から簡単に。「障害者のくせに凄い」「障害者なのに凄い」「○○さんは凄い」私は多くの方が最後の表現を自然にするのが障害者の方に望まれている理想だと思っています。抽象的で分かりにくく申し訳ありません。

2012-10-30 04:05:48
ひじじきき @hijijikiki

今の社会は、できること、有能であることを過剰に求めていると感じているので、バランスをとるために「できなくても気にしなくてよいのでは」と言うことが多いです。(続く RT“@LonlySquib 「○○さんは凄い」私は多くの方が最後の表現を自然にするのが障害者の方に望まれている理想

2012-10-30 20:36:04
ひじじきき @hijijikiki

続1) 「凄い」までゆかなくても、「自分のことは自分でできる」ことが(無理しなければ、多くの場合できるにこしたことはないのですが)過度に重視されているのでは。でも、身辺自立と言われているような、身の回りのことが自分でできない人、障害者や老齢者がいます。@LonlySquib

2012-10-30 20:38:18
ひじじきき @hijijikiki

続2) このような身辺自立ができない人でも、他からの支援によって「自立生活」する「3番目の自立」http://t.co/05DkEjreが可能な社会にしたいです。3番目の自立は他の2つの自立に劣るものでなく、できなくても、「凄く」なくてもよい、と思います。@LonlySquib

2012-10-30 20:39:44
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 例というのは、普通言いたい事を単純化し、読み手や聞き手に分かり易くするために使われます。特殊な事情がない限り、用いられる状況は、対象となる聞き手や読み手に対して標準的で有るほど理解を得やすいものだと思います。

2012-10-31 11:44:08
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 梯子は不便なので「健常者への」支援として階段にしました。とても適切な例とは言いがたいのではないでしょうか?まして、この元のお話はデパートで階段からエレベータです。そもそもお客の移動に梯子を利用していたデパート等あるのでしょうか?

2012-10-31 11:50:01
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 変える必要の無い例をわざわざ変えたという点、支援の目的を健常者への支援と限定している点。何か意図がない限り、普通は使われないのではないかと考えます。逆に恣意的なものがないとしたら、なぜ梯子と階段なのだろう?と思うわけです。

2012-10-31 11:53:58
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 前述に既に含まれていますが、仮に梯子から階段への支援であっても、それは健常者だけでなく、障害者の方にとっても支援であります。恩恵を受けられない障害者の方もいますが、傷害の種類と程度によります。私は恩恵を受けられる障害者の方の方がより多いと考えていますので、

2012-10-31 11:57:23
天地 人 @LonlySquib

@hijijikiki 健常者への支援に限定している表現に違和を覚えました。障害者という枠でくくる以上、健常者にだけ利のある支援というものは、それほど多くはないと思います。少数側や例外等のケースを一般論の中で語る場合、それは明示すべきだと考えます。

2012-10-31 11:59:59
ひじじきき @hijijikiki

.@LonlySquib 「なぜ梯子と階段なのだろう?」>多数者である健常者は既に支援・配慮がなされていること、しかも健常者は支援されている意識が希薄であること、障害者への支援は健常者が既に受けている支援に相当すること、を指摘するために、ハシゴと階段の例を出しました。(続く

2012-11-01 00:21:46
ひじじきき @hijijikiki

.@LonlySquib 続1)仰るように、ハシゴ、階段、エレベータのどれが設置されているかによって、その施設を利用可能な人、不可能な人の数が決まるでしょう。@kurizunbさんがあなたへのリプに『総務省の世論調査の質問票には「【回答票16】では障害のある人とない人が

2012-11-01 00:22:21
ひじじきき @hijijikiki

.@LonlySquib 続2)同じように生活するためには、例えば、車椅子が利用できるように商店やレストランの入り口のスロープやトイレを整備したり‥あなたは、こうした配慮や工夫を行わないことが「障害を理由とする差別」にあたる場合があると思いますか。」とあります。

2012-11-01 00:22:40
ひじじきき @hijijikiki

続3)これであれば、『差別に当たる』に◯だとしても納得できませんか?』http://t.co/Nae0Mgrfhttp://t.co/7AKej8Rj、と書かれてますが、@LonlySquibさんはこれを差別だと思いませんか?

2012-11-01 00:23:07