江戸の大名の江戸城への総登城について

江戸の大名の江戸城への総登城についてまとめです。
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@miohiroko

0588[武家]総登城。毎月28日は月次拝賀(つきなみはいが)と言い、参勤交代で江戸に滞在中の大名および水戸藩など常駐している大名が江戸城に上がり、将軍に拝謁する定例の日だった。なお、国許(くにもと)に居る大名は関係ない。この総登城について紹介する。

2012-10-28 19:30:21
@miohiroko

0589[武家]総登城。各大名はそれぞれの領地の君主であるとともに、幕府に仕える身でもあった。このうち、老中や若年寄といった要職に就くと常勤となるため、毎日江戸城に上がるとともに、その職に就いている間は参勤交代は停止され、江戸詰めとなる。これ以外の役職のない大名は登城する必要が→

2012-10-28 19:36:41
@miohiroko

→ないが、その代わり本日のような定例の日や式日などには登城をし、将軍に拝謁することで違背の気持ちがないことを常に示す必要があった。

2012-10-28 19:38:47
@miohiroko

0590[武家]総登城。これを現代に例えると、知事の役半数が常に東京に居り、その中から大臣や政務次官を任命するといったようなもの。もちろん、47人の知事ではとても足りないが、江戸時代は300の大名がいたから、幕府の要職に就いて余りあるほどだった。

2012-10-28 19:43:32
@miohiroko

0591[武家]総登城。さて、大名が江戸城に上るにはもちろんいろいろな定め、しきたりがあった。まず、江戸城にどれだけ近くに邸があろうとも、大名は供を揃えて行列を仕立てることになっていた。殿さまと家来数人でさっと行くなどもってのほかだった。但し、これは幕府が命じたわけではない。→

2012-10-28 19:47:09
@miohiroko

→これもまた不文律として、大名たちのほうで格式と立場を重んじるということから、自然とこのような形式がとられるようになった。

2012-10-28 19:48:24
@miohiroko

0592[武家]総登城。参勤交代のような大掛かりなものではないが、それでも行列は小藩でも数十人、大藩だと数百人。これらが江戸城に群集するのだから、それは壮観だったようで、この日は江戸の人たちが沿道に立ち、見物したという。

2012-10-28 19:57:25
@miohiroko

0593[武家]総登城。江戸城に着くと、格式に関係なく、すべての殿様は単身で大手門をくぐることになる。側用人さえ同行できない。このため、すべての家来たちは大手門前の広場で殿様が出て来るまで待つことになる。拝謁の行事そのものは一同揃って将軍に拝礼するだけですぐ済む。

2012-10-28 20:01:08
@miohiroko

0594[武家]総登城。が、この日はほかに人事の発令や初御目見えなど、付随する行事もいろいろ執り行われるため、朝9時頃から開始してもお昼までかかってしまう。その間、お供の者たちはじっと外で待ち続けだ。このため、広場には腰掛けや湯茶が用意された。

2012-10-28 20:04:30
@miohiroko

0595[武家]総登城。大手門を入った殿様たちは、お城坊主(茶坊主)と呼ばれる担当の世話係に従うことになる。広い城内、そしていろいろ作法やしきたりのうるさい場は、たまにしか登城しない殿様にとってはもうオドオドするばかり。そのためにこのような坊主がつくわけだ。

2012-10-28 20:08:12
@miohiroko

0596[武家]総登城。お城坊主も江戸城に勤務する役人。下っ端でなんの力もないが、殿様はこの坊主に従わないと何もできないため、威張る茶坊主、委縮する大名、という図が出来上がっていた。ちなみに、江戸時代も無数の怪文書が出回ったが、その多くはこの茶坊主たちによるものとされている。→

2012-10-28 20:11:40
@miohiroko

→それだけ大名たちからいろいろ情報を得たり、茶坊主同士でやりとりしていたからで、これは現代でも同じようだ。政治家の側近たちによるもの。

2012-10-28 20:12:54
@miohiroko

0597[武家]総登城。以前にも紹介したが、大名はそれぞれの家格と規模により、控室が決められている。御三家と加賀前田などの大大名は「大廊下」、島津、伊達、細川など10万石以上の外様は「大広間」といったように。登城したらまずそこに入り、開始を待つ。

2012-10-28 20:16:49
@miohiroko

0598[武家]総登城。城と名がつくものの、江戸城は幕府の政務を行う庁舎。政は「まつりごと」という和訓があるように、厳粛なものと考えられていた。当然、衣服も身分格式、そして季節ごとにきまりがあった。今のようにトップがネクタイもせず、だらしない格好でも平気というのは古人が見たらそ→

2012-10-28 20:23:14
@miohiroko

→の自覚の無さ、頽廃ぶりをさぞ嘆くことだろう。クールビズであっても、それを言い訳にして見るからにだらしのない格好は誰を置いてもトップはするべきではない。せめて庁舎内では。

2012-10-28 20:25:34
@miohiroko

0599[武家]総登城。茶坊主も次第に厚かましくなり、ただで城内のしきたりや作法を教えるのを拒否し出し、教えて欲しければ謝礼を、と要求するようになった。というと、茶坊主はとんでもない連中のように思えるが、実は発端は大名側にあった。なんとかソツなくこなしたいと思う大名の中から、→

2012-10-29 05:59:33
@miohiroko

→謝礼(まいない)を渡す者が出てきた。茶坊主も最初はこれに驚き、戸惑っただろう。しかし、大名の側で次第に真似る者たちが出て、そうなるとくれるものならもらってやろう、となり、しまいにはよこさないといいかげんなことを教えるぞ、となった。

2012-10-29 06:02:07
@miohiroko

0600[武家]総登城。茶坊主の有料の指南が公然となされるようになったものの、さすがに城内でのお金のやりとりはできない。そもそも単身で来ている殿様はお金なぞ持ってない。そこで、登城日の翌日から茶坊主たちが各大名家を回り、受け取りをした。無礼者、その方は指南をするのが役目、カネを→

2012-10-29 06:07:21
@miohiroko

→要求するとは不届き千万!と家来たちが怒るかと思いきや、殿に恥をかかせてはならぬ、とこっそり渡した。当時はすべてが恥の世界。恥をかかぬよう、辱めを受けぬよう、恥をかかせてはならない……この意識を理解しないと、当時の人たちを理解することはできない。

2012-10-29 06:09:44
@miohiroko

0601[武家]総登城。謝礼といっても、いわゆるタバコ銭といった僅かなものではない。と言っても登城日は毎月最低3日あるから、1回にそんな高額なお金も要求できない。具体的な資料はまだ目にしていないが、いずれの茶坊主もなかなか羽振りが良かったそうだから、かなりありつけたようだ。

2012-10-29 06:17:00
@miohiroko

0602[武家]総登城。茶坊主は大名邸へ行き、ただお金(指南料)をもらうだけではない。通された部屋の調度品などをさりげなく褒める。「結構な掛け軸ですねえ」普通なら「とんでもありません、安物です」などと謙遜して終わるところだが、当時のしきたりとして、もてなすお客がなにかを褒めた→

2012-10-29 18:22:44
@miohiroko

→場合、それは「欲しい」を意味する。そうなると、拒否できない。してもよいのだが、あとで「あの大名はかくかくしかじかのようなつまらないものさえ惜しんでくれなかった、なんとしわいことよ」と言い触らされる。そのため、喜んでその場で進呈するのが常識だった。逆に、そうさせないようにお客が→

2012-10-29 18:26:07
@miohiroko

→気を遣い、良いものでも褒めずに黙っているようにした。

2012-10-29 18:27:05
@miohiroko

0603[武家]総登城。茶坊主が来るとあれこれ褒めて持って行かれてしまう--こんなことから、大名側では次第に大したものは飾らないようにしたというが、それもあまり露骨だと茶坊主は気がつくし、やはり「あのお邸はケチだ」という噂を立てられるので、ある程度の物は飾らざるを得なかった。

2012-10-29 18:30:36
@miohiroko

0604[武家]総登城。茶坊主は幕府の役人、つまり国家公務員だ。それが大名たちにたいしてたかりをしているのだから、上層部の耳に入らないことはないはずだし、そもそも恥ずべき事。禁令を出して当然に思えるが、そのようなものを出した形跡はないなぜか。

2012-10-29 18:36:57