-
VNabokov_b
- 9527
- 0
- 1
- 2
![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ゴダールの『映画史』のようにして「一冊の本」を読むこと。或は・・・ナボコフで言えば、彼の『オネーギン』翻訳=注釈・・・まあ、これは訳す理由を見つけるのが難しい本で、たぶん、邦訳されない唯一のナボコフになるのだろう。
2012-12-21 03:15:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
或は沼野さんあたりは訳す計画があるのかな? しかしそうすると、一旦プーシキンの『オネーギン』を事改めてロシア語からの新訳として訳し、それを英語に訳したナボコフの異様(らしい)翻訳の意味とその異様な注釈を重ねるというややこしい本になってしまうのだろう
2012-12-21 03:19:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
河出文庫から『ナボコフの文学講義』が再刊されました。担当者の話では、売り上げが好調なら『ロシア文学講義』の再刊も考えたい、ということなので、ぜひ売り上げにご協力のほどを。そこで、個人的な『文学講義』キャンペーンをここで少しやってみます。
2013-01-02 15:23:15![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ナボコフが『文学講義』の原稿を書いていたのは、コーネル大学で世界文学の講義を担当することになった1950年以降。そして、ちょうどその年に、『ロリータ』の執筆に着手します。つまり、『文学講義』と『ロリータ』は執筆時期が重なっているわけです。
2013-01-02 15:26:39![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
そのような事情から、『文学講義』で取り上げられている作品(と、ナボコフの読み方)は、『ロリータ』にも直接的あるいは間接的な影響を及ぼしているように見受けられます。早い話が、『ロリータ』と一緒に読むと、『文学講義』は倍以上に楽しめる、というのがわたしの意見です。
2013-01-02 15:29:46![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
影響関係がわかりやすいのは、『ボヴァリー夫人』、『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』。これはいずれも『ロリータ』の中で直接的に言及されたり、もじりになったりしています。(たとえば、ハンバートの叔父さんはギュスターヴ、とか。)
2013-01-02 15:33:20![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
『ジキル博士とハイド氏』も、考えようによってはハンバートのキャラクタリゼーションそのままかもしれません。昼は謹厳実直な大学教師、夜はいかがわしいニンフェット狂なのですから。(昼は大学教師、夜は詰将棋作家も似たようなものか…。)
2013-01-02 15:38:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
すぐには影響関係が見えないのが、オースティンの『マンスフィールド・パーク』。しかし、『ロリータ』の根本にあるテーマが、実は『マンスフィールド・パーク』論の中に書いてあることがわかります。くわしい説明は省略しますが、ヒントとして、「スターン」とだけ言っておきましょう。
2013-01-02 15:45:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
実は、わたしがおもしろいなあと思っているのは、ディケンズの『荒涼館』との関係。この小説で有名なエピソードの一つは、クルックという怪しげな登場人物が、人体自然発火(spontaneous combustion)という怪奇現象で死ぬというくだり。
2013-01-02 15:51:11![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
この人体自然発火現象というのは、18世紀から19世紀にかけて信じられていたもので、ディケンズ本人もこういうことが起こりうると信じていたみたいです。この現象が出てくる有名な小説の例としては、チャールズ・ブロックデン・ブラウンの『ウィーランド』が挙げられます。
2013-01-02 15:55:10![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ナボコフはまずクルックを描写した次の文章を引用します。「彼は背が低く、死体のように青ざめ、しなびた老人で、頭は横ざまに両肩のあいだにめりこみ、まるで体の中に日がついででもいるかのように、口から吐く息は見るからに白い湯気を立てていました。」(河出文庫版202ページ)
2013-01-02 15:58:44![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
そこにナボコフはこう注釈を付けています。「ここに出現し、そしてやがて育成することになるもう一つの小主題は、火の引喩だ。『まるで体の中に火がついてでもいるかのように』。まるで(傍点)……かのように(傍点)……不吉な調べである。」(河出文庫版203ページ)
2013-01-02 16:02:13![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
要するに、最初は比喩として書かれていたものが、最後には本当の火事となって、クルックは焼け死んでしまうわけです。このように、ここでナボコフが注目している、比喩が実体化してしまうというネタは、ナボコフが自作品の中で好んで用いたテクニックでもありました。
2013-01-02 16:05:25![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それでは、この『荒涼館』の人体自然発火事件が、『ロリータ』にどのような影響を及ぼしたかという話に移りましょう。『ロリータ』には、火事のテーマとでも呼ぶべきものが存在します。この小説の中で、火事が2回起こりますが、読者の方々はご記憶でしょうか?
2013-01-02 16:09:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
日→火に訂正。@proparaナボコフはまずクルックを描写した次の文章を引用します。「彼は背が低く、死体のように青ざめ、しなびた老人で、頭は横ざまに両肩のあいだにめりこみ、まるで体の中に日がついででもいるかのように、口から吐く息は見るからに白い湯気を立てていました。」
2013-01-02 16:16:58![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それではお約束の、『荒涼館』ー『ロリータ』クイズの続きを。『ロリータ』で火事が出てくるのは、ハンバートがロリータに初めて会う、第1部第10章と、ハンバートが妊娠したロリータに再会する、第2部第29章の、計2個所です。
2013-01-02 21:23:16![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
まず大切なことを。この2つの章は、第1部と第2部でそれぞれ最も重要な章と言ってもよく、そのためほぼ対称の位置に置かれていて、細部についても明らかな照応関係があります。(たとえば、第1部でシャーロットが暖炉にせわしなく煙草の灰を落としていた仕草を、第2部でロリータが再現します。)
2013-01-02 21:27:27![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり、その2つの章のどちらにも「謎の火事」と言うべきエピソードが配置されているのは、パターンの対称性を強調するためのものだった、とひとまず考えていいでしょう。
2013-01-02 21:29:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それでは第1部第10章の「謎の火事」から。下宿先を探しているハンバートは、マックーという一家に十二歳の女の子がいるという情報を得て、まずそちらに出向きます。ところが行ってみると、マックー家はたった今火事で全焼したばかりと知らされます。これが第1部の謎の火事。
2013-01-02 21:33:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
やむなくハンバートはヘイズ家というところに赴き、そこで偶然にロリータと出会う、という話の流れになるのですが、最初にマックー家に行くのは物語的に迂回しています。なぜナボコフはわざわざハンバートをマックー家に行かせたのか。その理由の一つは、「火事のテーマ」を配置しておきたかったから。
2013-01-02 21:38:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ちなみに、キューブリックが撮った映画版の『ロリータ』では、ハンバートはいきなりヘイズ家に向かいます。それに対して、比較的原作に忠実であるエイドリアン・ラインのリメイク版では、まずマックー家の火事の現場から映画が始まっています。
2013-01-02 21:40:43![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
話を戻して、マックー家の火事を知ったハンバートは、こんな奇妙なことを綴ります。「おそらくは、私の血管で一晩中荒れ狂っていた猛火と時を同じくして起こった火災のせいだったのだろう。」(新潮文庫63ページ)
2013-01-02 21:42:52![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
この妙な言明をわかりやすく説明すると、こうなります。「ニンフェットに会えると思って私は一晩中血管の中で燃えさかる焔のために眠れなかったが、その焔がまるで現実になったかのように、マックー家が火事で全焼した。」
2013-01-02 21:47:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり、「血管で燃えさかる焔」という比喩が、マックー家の火事というかたちで現実化したわけで、これは『荒涼館』においてナボコフが指摘した、クルックの人体自然発火のエピソードにおける比喩の実体化とそっくり同じです。そういうわけで、ここにははっきりと『荒涼館』ネタが認められます。
2013-01-02 21:51:26![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それでは次に、第2部における謎の火事。最大の山場になる第29章で、ハンバートは妊娠したロリータと再会します。(これを、わたしはしばしば「ニンフェットが妊婦になった」と申しております。…駄洒落ですみません。)
2013-01-02 21:57:00