大化の改新①~⑨

大化の改新について纏めてみました。歴女ならぬ歴史好きにはたまらない話
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浅野 真 @makochan1969

【大化の改新1】大化の改新といえば645年に中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺し、翌日に蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った事件と学校で習った方が多いと思うがこの蘇我氏本宗家滅亡事件そのものは、乙巳の変という。

2013-01-03 21:14:55
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新2】絶大な権力を握っていた蘇我氏から皇室に権力を集中させるという意味では、乙巳の変は大事件である。しかし、大化の改新はもっと時間的にも内容的にも長くそして深く捉えられている。つまり、小国に分裂していた倭国が統一国家「日本」に生まれ変わる過程を意味するのであった。

2013-01-03 21:15:21
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新3】ちょうどその頃、中国では隋(581-618)と唐(618-907)という統一王朝が続いて出来、唐は、地続きの高句麗を手中に収めるべく攻めた。しかしこれがなかなかの戦上手で落ちない。そこで唐は、新羅と組んで落としやすい百済を攻めることになる。

2013-01-03 21:18:03
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新4】以前から百済と倭国は親密な関係にあった。倭国は百済から仏教(538年)や論語、文字、土木技術などの多くを学んだ。倭国と百済は特別な関係にあったといってよい。その百済が660年に唐と新羅連合軍によって滅亡させらてしまったのだ。

2013-01-03 21:20:17
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新5】百済滅亡を知った倭国は、百済復興を全面的に支援することを決定。翌年9月百済再興の為に、倭国(斉明天皇、中大兄皇子、中臣鎌足ら)は人質として倭国に来ていた百済の皇子豊璋(ほうしょう)に阿倍比羅夫らからなる5000人の救援軍を派遣して百済へ送り帰した。

2013-01-03 21:21:14
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新6】また662年斉明天皇と中大兄皇子は飛鳥を出て筑紫の朝倉の宮に移って百済援軍の準備をし、663年倭国は5万とも言われる人と1千艘の軍隊を派遣して、唐-新羅連合軍と戦った。これが、白村江の戦い(663年8月)である。この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。

2013-01-03 21:22:20
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新7】倭国は、亡命を希望する1万人程の百済難民を受け入れたのであった。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設が急速に進むこととなる。天智天皇は、近江令、天武天皇のときの飛鳥浄御原令が制定が命じられた。

2013-01-03 21:28:10
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新8】そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変えることになるのである。大化の改新が評価されたのは、江戸時代末期に紀州藩重臣の伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著したのが最初だといわれている。

2013-01-03 21:29:26
浅野 真 @makochan1969

【大化の改新9】白村江の戦いの戦後処理はどうであったのかなど興味は尽きないが、今から1300年以上前に倭国から日本へともの凄いスピードで国家を変貌させていったパワーに驚くばかりである。

2013-01-03 21:40:27