江戸時代の刑罰と盗賊対策

江戸時代の刑罰と盗賊対策まとめです。
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@miohiromin

1424[刑罰]取退無尽の地主= 屋敷取上げ

2012-12-20 17:45:13
@miohiromin

1425[刑罰]三笠附・博奕打・取退無尽それぞれの宿=両隣並びに五人組、身代に応じ過料。村方は組頭と五人組が過料。

2012-12-20 18:34:42
@miohiromin

1426[刑罰]三笠附・博奕打・取退無尽それぞれの宿の所在地の名主= 町方・村方とも過料五貫文

2012-12-20 18:37:53
@miohiromin

1427[刑罰]三笠附・博奕打・取退無尽それぞれの宿の町内= 家主は過料三貫文、向かい側は小間に応じて過料。村方は村高に応じて過料

2012-12-20 18:39:54
@miohiromin

1428[刑罰]小額の宝引・よみかるたを打った者= 30日手鎖。50文以上賭けた場合は博奕として処罰。

2012-12-20 18:49:58
@miohiromin

1429[刑罰]宝引(ほうびき)とはもと大名屋敷で正月3日に行った福引き。長いヒモの先にいろんな景品がついており、ヒモを1本ずつ引いて景品をもらう。やがて金銭を賭けるものとして世間に広まった。よみかるたは賭けかるた。

2012-12-20 18:53:17
@miohiromin

1430[刑罰]少額の宝引・よみかるた打ちに同席した者= 過料三貫文。但し、50文以上賭けた場合は博奕として処罰。

2012-12-20 21:11:29
@miohiromin

1431[刑罰]三笠附点者、金元および宿の者を訴え出た場合= 同類の者も含めて御褒美銀20枚

2012-12-20 21:15:09
@miohiromin

1432[刑罰]博奕打筒取および宿の者を訴え出た場合= 同類の者も含めて御褒美銀20枚

2012-12-20 21:16:21
@miohiromin

1433[刑罰]取退無尽の頭取および宿の者を訴え出た場合= 同類の者も含めて御褒美銀20枚

2012-12-20 21:17:14
@miohiromin

1434[刑罰]句拾い、札売り等を訴え出てしかも捕えた場合= 金5両または3両の御褒美

2012-12-20 21:20:10
@miohiromin

1435[刑罰]仲間の者へ金銭を援助するとためとして博奕を催し、集めた金銭の中から内証で配分を取った者= 遠島/但し、自身では博奕を催さず、配分を受けた者= 中追放

2012-12-21 07:09:23
@miohiromin

1436[刑罰]廻り筒で博奕を打った者= 過料/三回以上打った者は= 中追放

2012-12-21 07:13:42
@miohiromin

1437[盗賊対策](始)時代劇に慣れてしまっているのでつい考えが及ばないが、江戸や大坂などの都市部には町奉行がいて、同心や目明しなどの警察もいるからまだよい。問題はそれ以外の殆どの土地。城下町に武士が暮らす事を義務づけられ、農山村地域では普段、武士を見ることがない。

2012-12-21 09:30:01
@miohiromin

1438[盗賊対策]武士を見ないということは、警察官もいないということ。交番もなければ、すぐに通報できる電話もない。こういう土地でならず者が現れたらどうなるか。こういう事を考えた人がいれば、それは大したものだが、当時の社会はそれが常識だった。

2012-12-21 09:32:17
@miohiromin

1439[盗賊対策]政治家(屋)になりたがる人、また、危機管理を言う人は多いが、警察が及ばない土地での住民のあり方はどうあるべきか、当然すぐ答えられるはず。これから紹介するのは350年前に先人たちが生み出した制度であり知恵だが、ここまで考えが至るかどうか議員志望者に試験したいもの

2012-12-21 09:37:02
@miohiromin

@d2n71339 ご質問感謝です。追放という刑が当時あって、軽=江戸なら十里四方、京大坂は東海道筋から追放してそこに二度と住んではいけない、ということ。中=武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋から追放、→

2012-12-21 09:49:28
@miohiromin

@d2n71339 →重=さらに相模、安房、上総、下総、甲斐、駿河など範囲が拡大します。重になると家財もすべて没収され、なにも持たず知らない土地へ強制的に放り出される苛酷なものです。刑罰の種類については後日詳しく説明します(^o^)

2012-12-21 09:52:13
@miohiromin

@d2n71339 刑罰もキメこまかくて、そんなに恐怖な時代ではないです。悪人には厳罰をもって対処しましたが、これも吉宗将軍以降は囚人に手に職をつけさせて社会復帰を促進させるようになりましたし。いろいろあります(^o^)お楽しみに☆

2012-12-21 10:31:20
@miohiromin

1440[盗賊対策]明暦2年(1656)12月。上総(かずさ)で盗賊が横行した。警察があるわけでなく、通報もできない。盗賊たちにさんざん荒された。なにもこれは上総に限った事ではなく、各地でこの様な悪事に人々は日々悩み苦しんでいた。

2012-12-21 12:57:11
@miohiromin

1441[盗賊対策]上総は千葉県の中央部(画像=ウィキより)。ここは江戸に近い事から、幕府では江戸の治安を守るため、また、地方の住民らの盗賊対策として、その対処の仕方をただちに取りまとめて全国に通達した。 http://t.co/dBOxC71B

2012-12-21 13:03:44
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@miohiromin

1442[盗賊対策]権力者、統治者の威信を保つには、治安の維持が不可欠。盗賊が出てもなにもしてくれない、いつも泣き寝入りするのは良民たちというのでは、たちまち信頼を失う。もちろん江戸幕府はよくそれを知っており、警察組織の及ばない地域における盗賊対策を示した。以下、順に紹介する。

2012-12-21 13:08:53
@miohiromin

1443[盗賊対策]その1。「五人組を毎年定める事」入試の季節だが、五人組といえば江戸時代のすべての庶民に対して強制的に制度化されたもの。5戸を一つの単位として相互に犯罪者やキリシタンなどを監察した。のちには相互扶助、領主の意志伝達機関の機能も持った。

2012-12-21 13:27:19
@miohiromin

1444[盗賊対策]つまり、すべての住民を5軒ずつにまとめることで、住所不定者を無くし、このあと出て来るが、無職でふらついている者も出さないように相互の干渉を強くさせることで、犯罪者を出さず、出したら誰かすぐに分かるようにさせた。なお、五人組の長を組頭と言う。

2012-12-21 13:30:24
@miohiromin

1445[盗賊対策]その2。「耕作や商売をしない者、遠国へたびたび出かける者、博奕を好み、きれいな着物を着ている者があれば訴え出る事」当時、無職という者はあり得ず、まして働き盛りの者がぶらぶらしていたら、それだけで怪しまれた。そういう者が旅や博打、身綺麗にしていたら不審人物に。

2012-12-21 18:31:09
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