【三国志】関羽の死と文聘

呂蒙伝を読んで関羽の死の前後の行動に違和感が生じたので、それを解消できる解釈を考えてみた。 文聘△
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Jominian @Jominian

さて、関羽の話でもするか

2013-01-26 16:51:14
Jominian @Jominian

まずは、一般に考えられている関羽の撤退経路。樊城で徐晃に敗れた後、関羽は当陽にて江陵等が落ちている事を知り、西に向かい麦城に入る。その後、孫権へ偽って投降する振りをし、そのまま逃走したが、先回りしていた潘璋らに漳郷で捕らえられたというもの http://t.co/UuJJ258H

2013-01-26 17:01:48
Jominian @Jominian

しかし、俺はここで一つ疑問に思った。呂蒙伝には、麦城に走り、西に漳郷に至り、とある。麦城から見て漳郷は西ではないし、漳郷に向かうメリットがない

2013-01-26 17:05:00
Jominian @Jominian

北へ逃げるなら、向かう先は孟達らのいる上庸方面だろう。上庸に逃げるなら、漳郷を経ても結局は臨沮を通ることになり、臨沮へ真っ直ぐに向かわないで漳郷へ出る意味がない。この関羽の行動は合理性に欠ける。錯乱して道が分からなくなったと言えなくもないが、それではアホみたいな結論になる

2013-01-26 17:08:32
Jominian @Jominian

漳郷への動きが、何らかの陽動をかねている可能性もあまりない。圧縮される呉軍の包囲環に穴を作るような動きにならないからだ

2013-01-26 17:10:11
Jominian @Jominian

では、それらの疑問点を解消する解釈をするにはどうしたらいいか?

2013-01-26 17:10:40
Jominian @Jominian

その疑問を解消する鍵であるのが、誰あろう文聘である

2013-01-26 17:12:13
Jominian @Jominian

文聘伝には、関羽の輜重を漢津で攻撃し、その船を荊城で焼いたことが記されている。これを赤壁前後に行われたと見る向きもあるが、実際にはその後の、関羽が北上したタイミングで行われたであろう公算が高いことを、かつて述べた

2013-01-26 17:15:25
Jominian @Jominian

この文聘の行動を、関羽が徐晃に敗れて逃げた後のタイミングに挿入すれば、疑問は解決する

2013-01-26 17:17:53
Jominian @Jominian

そもそも、関羽の輜重を焼くタイミングは赤壁前後にはない。そして、呉と国境を接する文聘が、呉が形式的にでも臣従するより前に、漢津に出て関羽の軍を攻撃する余裕も生まれ難いだろう。つまり、文聘の行動は、包囲された樊城を救うための行動ではなく、呉の奇襲で動揺した関羽への攻撃と見るべき

2013-01-26 17:23:11
Jominian @Jominian

そうした状況を鑑みて、麦に入った後の関羽の行動を考え、その思考をシミュレートしてみよう

2013-01-26 17:25:49
Jominian @Jominian

関羽が麦に入った時点で、荊州の諸拠点は呉の手に落ちていた。当然、実際にも孫権がそう考えたように、関羽の逃げ道は臨沮から上庸へと抜けるくらいしかない。しかし、その程度のことは関羽は分かっているだろうし、臨沮が呉に遮断されている可能性も当然考慮したはずだ

2013-01-26 17:28:13
Jominian @Jominian

また、関羽は陸路にて麦に入ったものの、樊と襄陽の包囲に際して用いた船団も、当然撤退しているはずである。それが荊城にあった船と漢津の輜重である。そして、徐晃は関羽を破ってた後に摩陂に戻ったように、関羽に対する強力な追撃を行っていない

2013-01-26 17:32:21
Jominian @Jominian

つまりはこうである。荊州の状況から言って、軍を保って襄陽へと向かう険しい道を行くのはリスクが大きい。それに対し、追撃のなかった魏には余力がなく、漢津には船もある。多少の危険はあっても、漢水を北上して上庸へと向かう方が安全と関羽は考えた http://t.co/8RQUalvO

2013-01-26 17:39:17
Jominian @Jominian

これは呉や魏の裏をかく作戦ともなる。呉はまさか襄陽方面に戻るとは思っていないし、魏も関羽が戻ってくるとは思っていないだろうからである。

2013-01-26 17:40:17
Jominian @Jominian

漢水を北上し、鄀にて西へ転じ、中廬の南を川に沿って進むと、険しくないわけではないが、房陵へと出る道が通じている。関羽の考えた退路はそこである

2013-01-26 17:41:12
Jominian @Jominian

しかし、その関羽の希望をむなしく打ち砕いた人物が居た。そう、文聘である

2013-01-26 17:41:58
Jominian @Jominian

関羽は、漢津の船と食糧を以って北へ転じようと、麦城には兵が居るように偽装し、実際は東へと向かった。しかし、漢津へと着かぬうちに、魏の江夏太守文聘が、自分の船と輜重を焼いてしまった事が分かる。これにより将兵の士気は落ち、兵も皆四散してしまう http://t.co/g8qi8vRv

2013-01-26 17:45:31
Jominian @Jominian

もはや軍としての形を保てなくなった関羽らは、少数ならば逃げられるだろうと、山中に分け入るために「西」に転じて漳郷に向かった。しかしそこで、関羽の退路を遮断しようとしていた潘璋らに捕まる

2013-01-26 17:47:02
Jominian @Jominian

あとの流れは、一般的に考えられている通りである。漳郷で捕らえられた関羽らは、臨沮(の潘璋らの陣地)にて首を切られる

2013-01-26 17:48:10
Jominian @Jominian

改めて考え、疑問点を解消した結果、それまで自分が考えていたよりも、関羽は諦めてもいなかったし、魏や呉の裏をかかんと策を練っていたと分かった。そして、実際には関羽を殺す引き金を引いたのは、他の誰でもなく文聘だったのだ。文聘こそ演義でひどい目にあうべきなのである

2013-01-26 17:51:03
Jominian @Jominian

いずれ、関羽オタと文聘オタが互いに罵り合う光景が見られるかもしれない

2013-01-26 17:51:51
Jominian @Jominian

補足。文聘によって船を焼かれたことで、関羽は魏に対する見積もりが誤っていたと誤認し、襄陽方面に魏軍が展開していると勘違いしたと思われる。そのため、漳郷から山へ入ろうとしたのである

2013-01-26 17:54:14