山本七平botまとめ/【履歴書の検討②】/日本民族の履歴書における一転換点となった「かなの創造」「宗教混淆(シンクレティズム)伝統の確立」「朝幕併存体制の確立」

山本七平著『1990年代の日本』/民族の履歴書/履歴書の検討/19頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①駒田信二氏がある対談で言われたが、この文字をもたぬ「倭人」の知能指数は意外に高かったようである。 というのは中国から学ぶべきものを選択して学んでいた。 いわば中国学校のある「科」に入って、というよりむしろ通信教育で、実に能率的に学んでいたからである。<『1990年代の日本』

2013-03-02 17:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

②まず文字を導入した。 だが中国語に即応した中国文字とその文章法は日本に適合しなかった。 もっとも散文は中国文字に″翻訳″した上で、日本式に訳して読むことが可能である。 漢文はこのようにして出来たが、どうにもならぬのが詩歌であった。

2013-03-02 17:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

③どの民族でも、文学の発生は歌であり、やがてこの歌を集録して文字で表記しようという形になる。 だが、それを漢文にすればもはや日本の歌ではなくなってしまう。 そうなれば否応なく、漢字を表音文字として使わねばならぬ。

2013-03-02 18:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

④このようにして出来た万葉仮名という表音文字は、世界で最も不能率な文字であっただろう。 それを能率的に記せるように工夫し、漢字をまじえて詩歌も散文も自由に表記できるようになったのは『平家物語』のころであろうか。

2013-03-02 18:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤ここで日本人は、中国学校のある「科」で学んだことを自己のものとして卒業した。 そこで日本は、アルファベットを用いない唯一の先進国となる第一歩を踏み出したわけである。 そして同じような経過を経て別の「科」も卒業した。

2013-03-02 19:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥それは宗教である。 日本が仏教を輸入したころの唐は、仏教中心の三教合一論(儒釈道合一論)が主流になっていくころであった。

2013-03-02 19:57:41
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦紀元70年に中国に入って来た仏教は中国の伝統的な思想との間で様々な問題を生じつつ、長い歴史的経過を経て一応、三教合一論という形に落着き、やがて唐は政策的な面からもこれを”国教”のようにする。 日本はそれを導入し、その影響をうけ、恐らくそれが基で神儒仏合一論ができたのであろう。

2013-03-02 20:28:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧そしてこれが…以後の日本の宗教的伝統の基本となった。 この思想は様々に影響し、今も日本人の宗教や思想に対する基本的な態度の基となっている。 いわば自宗・自派を絶対化せず、他宗・他派を誹謗せず排撃しないならば、即ち三教合一論的伝統を守るならば、いかなる宗教も思想も受容する。

2013-03-02 20:57:41
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨キリシタンと一向宗は共に排撃されたが、その理由を鈴木正三は以上の伝統を守らなかった為としている。もっともキリシタン文書を見ていくと、次第に三教合一論的になっていくが、もし本当にそうなれば、宗教混淆(シンクレティズム)を異端として糾弾するローマ法王庁から排除されたであろう。

2013-03-02 21:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩三教合一論すなわち宗教混淆(シンクレティズム)こそ正統とする日本の面白い伝統は、日本独特でなく、唐からの受容に基づく伝統と見るべきであろう。これが後に、宗教や思想を絶対化せず、自己に役立てる「薬」と見る考え方を生じた。

2013-03-02 21:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪諸宗教・諸思想を「薬」とする見方は、鈴木正三にも石田梅岩にもあるが、この日本的プラグマティズムは、現代にも根強く残っている。たとえば、自民党政府の各種の委員会に、マルクス主義者がいても、またその政治の「師」に陽明学者がいても、日本人は別に不思議と思わない。

2013-03-02 22:27:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫役に立つならば、「薬」として用いればよいのである。 しかしレーガン政権にマルクス主義者が参与し、アンドロポフ政権にケインジアンが参与したら、これは、両国にとって、許すべからざるスキャンダルである。

2013-03-02 22:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬日本が学んだのは以上の二つだけではない。 それらを基礎にして成立する国家体制も法も中国から学び、それを基として律令国家が成立した。 確かに簡素化され、日本独特のものも附加されているが、基本は中国的体制である。

2013-03-02 23:27:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭もっとも当時の日本が学べるのは中国だけであったからそれは当然であったが、それは日本の実情に合うように徐々に変質されていった。 あるものは「名存実亡」となり空文化していったが、体制と法を根本から変えようとはしなかった。

2013-03-02 23:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮そして最終的には幕府ができ武家法ができて、律令は棚上げとなったが、それでも廃止されたわけではない。 家康の定めた「禁中並公家諸法度」には、天皇とその周辺は「律例」(律令と慣例)によると定められ、変質したものであったとはいえ、一定範囲内で名目的には明治まで存続したわけである。

2013-03-03 00:27:48
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯ここに「棚上げ」「骨抜き」という、面白い伝統が生じた。 実効性のないものの存続を、無意味なことだと日本人は考えない。 むしろそれは、「歴史を駆け足」で突進して来たような日本人にとっては、ある種の「歯止め」ないしは「安全弁」として効力があると考えているのである。

2013-03-03 00:57:40
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰そしてこの棚上げに基づく幕府の創設と武家法の公布は、中国学校のある「科」を完全に卒業したことを示すであろう。 以後の朝幕併存という日本独特の体制は「中国」にはない。

2013-03-03 01:27:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱そしてこの体制の樹立と法の公布は、日本民族の履歴書の重要な一転換点であり、この点については、履歴書の重要な一項目として次章でやや詳しく記すことにしよう。

2013-03-03 01:57:40