- HAYASHI_twit
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(エクリチュールの神は、)ジョーカーのような存在であり、遊戯に遊びを与える〔遊戯を作動させる〕手持ちの能記(シニフィアン)、中性的なカードなのだ。(『散種』)
2014-01-25 10:19:44エクリチュールの神は医術の神である。この場合、「医術」とは、学であると同時に秘薬でもある。治療薬にして毒。エクリチュールの神はパルマコンの神である。(『散種』)
2014-01-26 10:23:20パルマコンが「両面的」であるのは、そのなかでもろもろの対立物(魂/身体、善/悪、内/外、パロール/エクリチュール、等々)が対立し合う中間環境〔媒体〕をなすからであり、そうした対立物たちを相互に関係づけ、転倒させあい、移行させあう運動と戯れをなすからなのだ(『散種』)
2014-02-16 10:25:26パルマコンの境位は哲学とその他者との戦いの場なのだ。まだこう言えるのならば、それは決定不可能な境位それ自体である。(『散種』)
2014-02-22 10:19:44宮﨑裕助氏によるデリダ『散種』書評
『思想』2月号目次 http://t.co/4QLTvPkYnA ――柿並良佑「存在論は政治的か?」と宮崎裕助「限定的ミメーシスから全般的ミメーシスへ」(デリダ『散種』の書評)は今すぐにでも読みたい
2014-01-24 16:59:17『思想』2月号(岩波書店)目次。ナンシー論、デリダ『散種』長文書評、ルソー論、ハイデガー論等。http://t.co/uXmg8pECxV 冨原眞弓/井上文則/汪宏倫/永田善久/柿並良佑/宮﨑裕助/桑瀬章二郎/森一郎/山本理顕 http://t.co/5Ky3QWFvww
2014-01-26 17:14:46『思想』2月号、早速、宮﨑裕助さんの「限定的ミメーシスから全般的ミメーシスへ」に目を通す。あの分厚い『散種』をどこから読めばいいか途方に暮れた人には格好のガイド。しかし、テクストを「読まずに済ます」ことを許さぬ厳しい批評でもある。
2014-01-29 15:46:22宮崎裕助「〈書評〉限定的ミメーシスから一般的ミメーシスへ」読了。これも力作。これを読んで『散種』をわかったつもりになるのは論外として(実際、それほどに優れた解説となっている)、『散種』を読まねばと決意させてくれました。
2014-02-01 01:25:09宮崎裕助「限定的ミメーシスから全般的ミメーシスへ」(『思想』2月号)を読む。デリダ『散種』の書評の装いながら、ミメーシス概念を正面から論じる。詳細な文献情報も有益。ニーチェ論Eperonsでの鍵語イメーヌhymen(婚姻、処女膜)がマラルメ論でも鍵語であったことを今頃知る 汗。
2014-02-08 14:07:06『思想』2月号、宮崎裕助「限定的ミメーシスから全般的ミメーシスへ」読了。これは素晴らしい。デリダ『散種』についての非常に明晰な解説だと感じた。『散種』には6頁ほどのあっさりした訳者あとがきがあるだけなので、改版の際には「この書評をぜひ解説として入れて欲しい」と思ってしまった。
2014-02-22 17:30:21宮崎氏の『散種』書評は、「本を投げ出したくなる」読者や「言葉遊びにしか読めない」読者を念頭に置きつつ書かれていて、この本が書かれた時代背景を俯瞰しつつ、デリダの各論文の概略へ、そして核となる論点「ミメーシス」へと次第にズームインし、意味の呪縛から逃れる言語の物質性に向かう。
2014-02-22 17:34:16「このように書かれている」という初歩的な書評ではなく、「なぜこのように書かれているのか」というテクストの内実へと踏み込んだ批評といえるもので、『散種』がデリダのミメーシス論だと述べると同時に、その実践的テクストでもあることを示唆。文学と哲学の関係を改めて問う啓発的なものでした。
2014-02-22 17:38:03立花史「ジャック・デリダのマラルメ」(フランス語フランス文学研究) jstage.jst.go.jp/article/ellf/1… #PDF 特にリシャールとの関係において、文学研究に対するデリダの介入の意義を捉え直す「二重の会」読解で「脱構築的読解が含み持つ構築的側面」を浮き彫りにした論攷。
2017-04-05 15:29:28