モーサイダー!~Motorcycle Diary~Episode of Spring III~
- IngaSakimori
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テコの原理。 軽く手で押しただけでスパーダの後輪はあっけなく持ち上がり、前輪とレーシングスタンドだけが乾燥重量140kgの車体をささえる。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:45:57「綺麗なバイクだ……ホンダらしくないってーか、イタ車みたいな色気があるよな。 そう思わねえか、シー坊」 「これ以外に乗ったことがないからわからないよ」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:46:16「ホンダだとVTR1000……あー、Fの方な。ファイヤーストーム。あれくらいだな、こういうセンスは」 17mmのソケットをラチェットハンドルへ装着して、店主はスパーダの腹下へもぐりこむ。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:46:35力を入れるのは最初だけだ。オイルドレンボルトが緩んだあとは、くるくると手で回していく。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:46:52もう半回転で外れる━━そのタイミングで、オイル受けのトレイを直下へ敷くと、指先をすこしだけ汚しつつ、オイルドレンボルトを抜き去る。 真っ黒なオイルが重力にしたがって落下をはじめる。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:47:01「祇園田おじさん、手、拭きなよ」 「おう、気が利くな」 志智がさしだしたペーパータオルで右手とボルトを拭くと、祇園田はボルトにはまっている銅製のワッシャーを一瞥し、交換する。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:47:35「いくら?」 「昨日の夕飯は鮭だったな……」 「オヤジギャグかよ。その丸いのと、オイル代……ちゃんと払うよ」 「くだらねーこと気にするな」 「けど、1500kmしか走ってないのに、オイル交換なんて」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:48:13「どうせ変えるのは、メーカーの営業が置いてった試供品だ。 それも一番安い奴な、つまりタダってことだ。そんな気になるなら、今度千歳ちゃんにコーヒーでもいれてもらえりゃいいや」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:48:37「……わかったよ。2リットル、ちゃんと作らせる」 「残念だな。今回はフィルター交換してないから、1.8ってところだな。 オイルの交換量はここ……車体にも書いてあるからな。自分のバイクのことは覚えとけ、どっかで役に立つぜ」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:49:06半透明のジョッキから、飴色の新品オイルがエンジンへ注ぎ込まれていく。 無理に押し込めばあふれだし、ゆっくりやりすぎれば無限の時間がかかる。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:49:45小さく細いモーターサイクルのオイル注入口から、その液体をそそぎこむ作業の効率は、単純でありつつも驚くほど経験値に依存する。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:50:47「1500kmしか、ってさっき言ったけどな、シー坊」 「うん」 「バイクにもいろいろある。エンジンにもいろいろだ」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:51:05「VTみたいなエンジンを長持ちさせるためにはな……ふつーのオイルを、ちょいちょい変えてやる。こいつが一番なのさ。 モービルもモチュールも……カストロールの全合成油もいらんいらん。ホームセンターの安売りバイクオイルだっていいんだ」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:51:33「とにかく小まめに交換する。VTを長持ちさせる最高のレシピさ」 「ふうん……」 その言葉を年寄りが語るつまらない秘訣として忘れてしまうことは簡単だった。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:52:11きっとネットを検索すれば似たようなことを書いてあるサイトがいくらでもあるだろうし、バイクの整備には大して興味のない志智にとって、オイル交換の頻度や使うオイルの種類など、どうでもいいことに思えた。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:52:26(いや━━でも) けれど、覚えておこう。 この人は、自分たちの後見人なのだから。両親を亡くした自分と妹を助けてくれた、第一の人なのだから。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:52:34(あそこに住んでいられるのは……祇園田おじさんのおかげだからな……) 言葉を。情報を。記憶しているだけで、少しでも恩に報いることができるならそうしよう。 志智は祇園田の言葉を脳裏で反芻し、そして自宅に帰ってからはメモした。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:52:51「楽しみですわね、明日」 「……そういえば、もう明日なのか」 水・木・金の三日間は深夜のアルバイトがある。 二時限後の休み時間に話しかけてきた亞璃須(ありす)へ、三鳥栖志智(みとす しち)は眠たげな目のままで応じた。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:56:46「雨でも降れば中止かな……」 「何をとぼけているんですか。雨が降ったのは一昨日ですわ」 「そうだった。夜の雨って走りにくいんだよな……」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:57:05「あの2ダボ━━なかなか速そうですけど、勝てます?」 「むりやり勝負に引っ張りこんだお前が言うセリフかよ、それ」 「ふふん」 抗議の意志を多分にふくんだ志智の半眼に、亞璃須は悠然と応じる。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:57:15「志智、あなたは少しだけ嬉しかったはずですわ。 あんなふうに面と向かって『勝負したい』なんて。いまどき、普通に走っていたら絶対にありませんものね」 「バイクで勝負なんて危ないだろ。俺は周遊でレースをやってるわけじゃないんだぞ」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:57:52「そうですわね。『あのとき』のあなたは、レースどころか殺し合いみたいな走りでしたものね」 「………………」 殺し文句をつきつけられた時のように、三鳥栖志智は沈黙する。 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:58:10いや、ただ一言だけ、儚い抵抗を試みた。 「……そうやって、何でもあの事を持ち出せば、思い通りになるとおもうなよ、亞璃須」 #mor_cy_dar
2013-04-17 19:58:33