奥羽列藩同盟は仲良しグループじゃない

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sato @satokonbu

会津、庄内、仙台、米沢の4藩の中で一番冷静だったのはどう考えても米沢

2013-06-01 18:03:50
sato @satokonbu

そろそろ切り替えて歴史モードに移ります。昼間に散々悪態をついた大河のサブタイトル「会津を救え」に関連するもの。間もなく大河にも登場する奥羽越列藩同盟について、会津同情論とか仲良しグループとかお花畑な感じには到底思えないので以下つらつらと。TL荒らし申し訳ありません。

2013-06-01 21:54:28
sato @satokonbu

仙台藩も米沢藩も積極的に会津を攻めるつもりはないが、全面支援をしているわけではなかったという流れは、鳥羽伏見の戦いから約2か月後、3月18日に奥羽鎮撫総督の九条道孝が仙台藩領東名浜に上陸し、即刻会津を討てと命じるあたりから本格的に見えてくる。

2013-06-01 22:04:01
sato @satokonbu

会津を討ちたくはないが新政府の命に背くわけにもいかない仙台・米沢は、まずは会津に謝罪歎願させることで少しでも事態を好転させようと両藩士が仙台・米沢・会津の間を奔走する。これは国許だけではなく京都詰だった藩士にも共通した考え方だった。

2013-06-01 22:07:34
sato @satokonbu

鳥羽伏見開戦の知らせが届くと同時に京都に派遣された米沢藩士・宮島誠一郎は、奇しくも九条総督が東名浜に上陸した日と同じ3月18日、仙台藩の京都詰・菅原竜吉、後藤庄左衛門らと会談し「奥羽連衡してことにあたること」の必要性を説いている。これは何も無謀なことをしているわけではなかった。

2013-06-01 22:11:34
sato @satokonbu

3月21日、宮島は土佐藩・後藤象二郎と面会。後藤は「奥羽が連衡して会津を説得し、謝罪歎願すれば寛大な処置もありうる」との見解を示す。会津討伐の命令は下ったがいまだ方針は流動的で、それこそ枝(仙台・米沢)から刈るか根本(会津)を枯らすか、新政府内でも喧々諤々の議論があった時期。

2013-06-01 22:15:26
sato @satokonbu

何度となく総督府から会津攻めを求められていた米沢藩は4月4日、今後の藩の方針(国是)を決める会議を持ち「討会奉命」と決した。ただ、会津藩には最後の最後まで説得を加えた上で、それでだめなら会津征討に踏み切るという条件付き。

2013-06-01 22:20:17
sato @satokonbu

米沢・仙台・会津の三者会談は4月以降、慌ただしさを極める。記録で確認できるだけでも4月は16、18、19、20、21日と三藩の関係者が会津なり米沢なりどこかで議論を交わしている。焦点は会津藩の謝罪条件だった。米沢が妥当と示したのは①開城②領地削封③重臣3人の首の差出の3点。

2013-06-01 22:27:49
sato @satokonbu

この3点に関する最終的な議論が行われたのが閏4月1日、仙台・米沢藩境の関宿本陣で開かれた「関宿会談」。この会談の内容は3藩ともにかなり詳細な記録が残っていて具体的。ほぼ一言一句理解できる。特に仙台藩の記録はかなり詳細にわたっていて、緊迫感が伝わってくる。

2013-06-01 22:33:09
sato @satokonbu

【関宿会談(慶応4年・1864年閏4月1日)】会津は梶原平馬ら、仙台は但木土佐、坂英力、真田喜平太ら、米沢は木滑要人らが出席。謝罪歎願にあたり梶原は但木から若松城の開城と鳥羽伏見の首謀者の首を差し出すことを求められる。以下、梶原の返答。理屈としては分からないでもないが何とも苦しい

2013-06-01 22:40:12
sato @satokonbu

梶原の反論:鳥羽伏見の首謀者はほとんど戦死した。生き残った者は藩のために忠義を尽くしており、彼らの首をはねれば藩内動揺して何が起きるか分からない。鳥羽伏見の一件は徳川慶喜が謝罪して朝廷も受け入れている。もし会津に罪があったとしてもそれはその時点で消滅しており、討たれる道理がない

2013-06-01 22:43:19
sato @satokonbu

梶原の反論を受けた但木は「ならば謝罪歎願の意思を総督府に伝えることはできない。仮にそのまま伝えたとしても受理されないだろう。その時、会津藩はどうするのか」と迫る。その言葉に対する梶原の答えは「全藩死をもって守るのみ」。

2013-06-01 22:46:06
sato @satokonbu

仙台も米沢もここまで神経戦で散々理詰めでやってきたのに、当の謝罪する側が精神論で開き直るという時点で議論はかみ合っていないのだが、但木はなお粘る。「全藩死を決して守るのと、わずか2、3人の重臣の首で藩の命運を掛けるのとどちらが大事かよく考えろ」と。ここで畳みかけたのが真田喜平太。

2013-06-01 22:53:07
sato @satokonbu

真田は当時若年寄で会津征討論者の一人。「もし首謀者の首を差し出せないのなら速やかに帰国して軍備を整えよ。我らは会津藩と戦場で相まみえようではないか。もとより臣子の罪は君父の過失。会津が君臣の義を正すのであれば鳥羽伏見は前将軍(=慶喜)の罪にあらず、会津公の罪と言うべきではないか」

2013-06-01 23:07:14
sato @satokonbu

(このあたりは原文のほうが分かりやすいな…)

2013-06-01 23:07:35
sato @satokonbu

真田の追及続き:「また、鳥羽伏見の一件は会津公の過失ではなく我々重臣らの罪であると言うのがもっともではないのか」。この追及に梶原はしばらくの間黙考し「誠にその通り」とした上で「仮に我々が誠意を尽くしても総督府が受け入れるだろうか」となお疑問を呈する。

2013-06-01 23:13:16
sato @satokonbu

真田はその意見を引き取って「誠心誠意尽くせば必ず聞き入れられるだろう。保証する」とまで言い切った。以上、関宿会談のあらましおしまい。ちなみに梶原の啖呵の原文は会津戊辰戦史は「闔藩(=全藩)死を以て守らんのみ」、仙台藩記では「一国死を以守申候」。意味はだいたい同じ。

2013-06-01 23:17:27
sato @satokonbu

この関宿会談の結果をもって仙台・米沢による謝罪歎願は具体化。閏4月12日、両藩主は岩沼滞在中の九条道孝に会津の謝罪嘆願書を提出。8時間粘った末に受理させることに成功する。日付は前後するが閏4月4日には宮島が京都で新政府参与の広沢真臣と面会し会津を説得して恭順させるよう依頼される。

2013-06-01 23:23:40
sato @satokonbu

宮島は広沢の意見を伝えるべく閏4月10日出発して米沢へ。米沢着は18日。まさに嘆願書を提出したばかりで奥羽でも京都でも全く同じことを考えていたということになる。しかしこの頃から仙台藩が強硬路線に切り替わっていた。世良修蔵の態度が余程頭にきていたのかもしれない。

2013-06-01 23:29:35
sato @satokonbu

徹底抗戦へと向かおうとする仙台藩を抑えるべく、米沢藩は京都から着いたばかりの宮島をその日のうちに白石に向かわせる(なんて人使いの荒い…)。しかしまさにその18日、白石滞在中だった米沢藩の木滑要人は提出した嘆願書が却下されたと伝えられていた。

2013-06-01 23:32:43
sato @satokonbu

日付変わって閏4月19日。この日の動きは宮島の日記の描写があまりにも躍動感、臨場感に溢れていて最高に面白いので以下抜粋。文面から察するに、嘆願書却下の知らせに白石は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたようである。

2013-06-01 23:36:20
sato @satokonbu

【閏4月19日七ヶ宿街道道中・超意訳1】湯ノ原宿(仙台藩領に入って最初の宿場)の庄屋に駕籠が数艇。会津の梶原が嘆願の結果を待っているという。峠田(湯ノ原の東隣)、滑津(さらに東隣)の間で早駕籠に出会う。誰かと思ったら木滑が帰国するところだった。

2013-06-01 23:48:29
sato @satokonbu

【閏4月19日七ヶ宿街道道中・超意訳2】木滑「嗚呼天下の大事去る々々」宮島「とにかくこのまま白石に向かって、総督府がだめなら太政官に建白させるようにするんで、木滑さんは国許のことお願いしますよ!」

2013-06-01 23:52:40
sato @satokonbu

【閏4月19日七ヶ宿街道道中・超意訳3】木滑と別れるとすぐ後に駕籠が。乗っていたのは米沢藩士江口復蔵と上山藩士増戸武兵衛。「新庄にいる沢為量と大山格之助を引き離すため、庄内藩に新庄に出兵するよう急ぎ伝えまする!!ダダダダタ」宮島の言葉を顧みもせず駕籠を飛ばして去って行った

2013-06-01 23:58:30
sato @satokonbu

【閏4月19日七ヶ宿街道道中・超意訳4】するとそのまた後に今度は駕籠にも乗らず袴からげて(!?)息を切らして坂道を登ってくる武士あり。仙台藩の横田官平だった。

2013-06-02 00:03:25
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