幕末の兵学

幕末の兵学
15
土方歳三 @fukucho_Hijikat

ちょいと幕末の頃の兵学について話しをしようか。

2013-06-05 14:15:45
土方歳三 @fukucho_Hijikat

幕末期には西欧の蘭学や洋学と共に兵学も色々入ってきた。養兵学、練兵学、製器学、営城学、検地学、修路学と言った学問と、戦闘術、攻守術、将帥術を内容を主にしたもの。江戸時代後期の日本で西洋兵学の受容が始まった経緯には、露西亜からの択捉攻撃、英国軍艦フェートン号の長崎不法侵入等がある。

2013-06-05 14:23:19
土方歳三 @fukucho_Hijikat

所謂東アジアに迫る不穏な列強情勢に、当時の日本国内の幕閣や諸大名、各地の武士達が危機感を抱き、列強と同等の力を持っていると当時考えられていたオランダから、海軍、陸軍、砲術や築城といった分野での専門知識を導入し、それによって欧米諸列強の侵略に対抗しようとしたからだとも言われてる。

2013-06-05 14:24:28
土方歳三 @fukucho_Hijikat

フランスから軍事顧問団を招聘したのは慶応に入ってからだったな。

2013-06-05 14:26:32
土方歳三 @fukucho_Hijikat

と言うものの、西欧の兵学以前に国内にも昔から用いられてきた兵学がある。一部は兵法ともいうが、有名な所は甲州流、越後流、北条流、山鹿流、長沼流、合伝流、楠流等だな。今回はこの国内の兵学の中から山鹿流について触れる。まあ、その内他の兵学も時間を見つけて話していくけどな。

2013-06-05 14:29:56
土方歳三 @fukucho_Hijikat

山鹿流の開祖は山鹿素行。会津生れの江戸前期の儒学者であり兵学者。儒学は林羅山に、兵学を北条氏長らに学んで「聖教要録」を著し、朱子学を排して幕府の怒りを受けて播州赤穂に配流となったが、赤穂では厚遇されたらしい。その後赦免されて江戸に戻っているが、赤穂浪士達もこの山鹿流は用いていた。

2013-06-05 14:33:55
土方歳三 @fukucho_Hijikat

山鹿流兵学は吉田松陰が学んだ流派としても有名だな。その門下生、肥後の宮部鼎蔵もこの兵学を納めている。

2013-06-05 14:37:11
土方歳三 @fukucho_Hijikat

この流派は単に戦術を専門的に体系化した流派でなく、正式には「山本勘介流」とも言われ、山鹿素行が『甲陽軍鑑』を骨組みにして構築した兵学だ。更にそこに北条氏長から学んだ甲州流兵学も組み込んだ形でその成り立ちをみている。

2013-06-05 14:40:39
土方歳三 @fukucho_Hijikat

甲陽軍鑑』は、有名な戦国期の武将、甲斐の武田信玄・勝頼親子が二代にわたり、治績、刑政、戦争、戦術、戦略構想、論功行賞等を纏め上げた兵学書だな。山鹿流の特徴として、合戦に於ける戦術以外に武士の道義的行動を指摘し、一つの武士道の世界をも提示している。

2013-06-05 14:43:45
土方歳三 @fukucho_Hijikat

この道義的行動の一部の例として、武田信玄は常に合戦において完全な勝ちではなく敵に4割の余力を残し6割の勝ちが大事であるといった六分の勝ち」を求めたと言うように、「皆殺しの戦法」を戒めた意図が貫かれていた。と言っても、実際の戦になればそれを成す事は難しい。

2013-06-05 14:48:42
土方歳三 @fukucho_Hijikat

山鹿流兵学は単に戦術だけを重視する軍学ではなく、本当の武士の生き様とは如何なるものか、武士道精神を啓示した特異な流派でもあったらしい。その精神には戦術を教える『武教全集』と技術面の部分を除けば『葉隠』にも共通の部分もある武士の道義的心得が貫かれていた。

2013-06-05 14:54:13
土方歳三 @fukucho_Hijikat

その精神が後に幕末の吉田松陰にも受け継がれ、彼に大きな示唆を与えた。やがて、この武士道精神と松陰自身の経験や学識を集大成したものが、「松陰学」というものに発展していくらしい。

2013-06-05 14:57:42
土方歳三 @fukucho_Hijikat

もっと細かく説明してもいいが、ややこしい上に色々と複雑なんで概要程度に留め、ここまでにする。以上だ。

2013-06-05 15:00:31