のぶお伝説

内大臣・織田信雄公の素顔に迫るっ!!!
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さき @masakishibata

織田信雄の名前の読みは『のぶかつ』が一般的なんですが、たまに『ぶお』と書かれた史料があります。代表的なところで寛政重修諸家譜では『のぶを』と記載しています。これ、武家流の読みでは『のぶかつ』、公家流の読みでは『のぶお』とする解釈もあるとか。

2013-06-10 18:32:33
さき @masakishibata

信雄は内大臣にまでなった武家公卿であり、公家流の読みであっても間違いはありません。正しい読みがどちらなのかは、同時代の史料に確実なものがないので推測するしかないわけですが。まぁ、それ以前に諱で呼ぶこと自体が少ないだろうということもありまして。

2013-06-10 18:32:54
さき @masakishibata

わたしは変換するときは「のぶお」としています。「のぶかつ」で変換すると先に『信勝』が出てきて叔父上が登場してしまいますので。読みは『のぶかつ』派です。

2013-06-10 18:33:06

我こそは大坂の総大将っ!!!(但し、未遂)

さき @masakishibata

そうそう、有名なエピソードで「大坂の陣で大坂方の総大将に信雄が担ぎ上げられようとしていた」という話があります。片桐且元が駿府から持ち帰ってきた和平案を(且もっちゃん諸共)斬り捨てて、徳川方と一戦交える決断を豊臣方上層部が下そうとしたときのことです。

2013-06-10 18:36:58
さき @masakishibata

当時、大坂方には信包・長益・信雄の3人の織田家の有力者がいました。今さら豊臣家が織田家の人間を盟主に担ぐメリットもなさそうですので、本当の意味での総大将を求めていたのでしょう。そこで織田信雄(当時は出家していたので常心入道)の名が上がります。

2013-06-10 18:37:21
さき @masakishibata

信雄は「この入道、若い頃は1万2万の軍勢を型が出来ているかのように使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、素晴らしい活躍をお見せしましょうぞっ!」、と。これには豊臣秀頼も大いに喜び、「すべて入道の計らいに任せる」と挙兵を決断。

2013-06-10 18:37:42
さき @masakishibata

しかし、信雄は密かに片桐且元に使いを出して事の詳細を伝え、自身は風雨に紛れて大坂を脱出。徳川家康がいる二条城へ入ったとのこと。このしたたかさ、若い頃の信雄からは想像もできない変貌ぶりである。(成長したというのか?)

2013-06-10 18:38:01
さき @masakishibata

で、信長の弟である信包・長益がいたにも関わらず信雄を総大将に担ごうとしたのには、きちんとした理由があると思います。前2者が持っていなくて信雄が持っているもの、それが「大軍を指揮した経験」だと考えます。まぁ、失態も多くありましたが戦場の空気を知っているか否かは重要かと。

2013-06-10 18:39:17
さき @masakishibata

北条氏直のときにも話したのですが、関ヶ原以降の時代になると「大軍を指揮した経験」が非常に稀有なスキルになってきます。特に大坂まで時代が進むと、ほとんど徳川家康の独壇場。その家康と(色々アレなことはあっても)同時代に戦場に立って軍を指揮した人物、そんな希少性が信雄にはありました。

2013-06-10 18:40:17
さき @masakishibata

それが夏の陣で総大将を希望しながら無視された織田頼長(長益の子)との決定的な違いかと思います。

2013-06-10 18:41:14

のぶおの日が終わる・・・

さき @masakishibata

『のぶお伝説』とか垂れ流して需要ある?美少年ネタが2件ほどあるけど。

2013-06-10 18:51:20
さき @masakishibata

のぶおの日も終わりつつある・・・

2013-06-10 21:38:46
さき @masakishibata

このまま『のぶお伝説』はお蔵入りである。

2013-06-10 21:47:45
さき @masakishibata

今日、めっさ織田信雄について語った。でも、自分で宿題出しながら何も解決していない。そんなもんである。

2013-06-10 21:48:34

6月11日

信雄の官位について。

さき @masakishibata

昨日の宿題のひとつ、豊臣秀吉織田信雄の官位が逆転したのはいつの時点かについて。それを調べるため、任官の経過をまとめてみた。比較対象として、当時のもう一人の有力者である徳川家康についても挙げてみる。

2013-06-11 18:34:40
さき @masakishibata

まず、本能寺の変が発生した1582年の時点。ここをスタートラインとすると、秀吉は無位無官、信雄は従四位下・左近衛権中将、家康は従四位上・右近衛権少将。信雄と家康は官位が先行していて官職が追いついていないが、そんな厳密な出世コースではないだろうし気にしないことにする。

2013-06-11 18:34:53
さき @masakishibata

まずは秀吉。【1584/10】従五位下・左近衛少将→【1584/10】従四位下・参議→【1584/11】従三位・権大納言→【1585/3】正二位・内大臣→【1585/7】従一位・関白→【1586/12】太政大臣僅か2年で太政大臣にまで登り詰めたスピード出世がよく分かる。

2013-06-11 18:35:13
さき @masakishibata

ちなみに従三位までの出世ペースが誰の目にも明らかに不自然なので、左近衛少将と参議の任官時期を記録上は1582年としているらしい。うん、堂々とした改ざんです。

2013-06-11 18:35:29
さき @masakishibata

次に信雄。【1585/?】正三位・中納言→【1586/?】従二位・中納言→【1589/?】正二位・内大臣。どれも正確な日付が不明でしたが、順当に出世コースを歩んでいることが伺えます。

2013-06-11 18:35:37
さき @masakishibata

最後に家康。【1583/10】正四位下・左近衛権中将→【1584/2】従三位・参議→【1586/10】権中納言→【1586/11】正三位→【1587/8】従二位・権大納言→【1587/12】左近衛大将、左馬寮御監。(後半に続く)

2013-06-11 18:36:00
さき @masakishibata

(前半からの続き)→【1596/9】正二位・内大臣→【1602/1】従一位→【1603/2】右大臣、征夷大将軍→【1614/3】太政大臣。多いわっ!何この細かい積み上げは。イエアス堅実なの?着実なの?省略しましたけど、1566年からこのペースが続いているからな。

2013-06-11 18:36:22