丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年7月)
今更の確認。デカルトはシェイクスピアの同時代人だった。彼の『方法序説』も『省察』も孤独の書ではなく言わば「舞台上の演者の独白」であり或いはその台本であるだろう。独白を演ずる「彼=私」の前に聴衆がいる。「(さて皆様、私はかの悪霊に言ってやるのです)、欺くなら力の限り欺くがいい!」
2013-07-28 12:24:09昨年事故死したアンゲロプーロスの『シテール島への船出』だったろうか、父親役のオーディションに集まった老人たちがただ一言を台詞を与えられる。「エゴーイ!(私だ!)」。それが入れ替わる顔の大写しとともに延々と続く。
2013-07-28 12:40:56「他者」が「エゴーイ!」という語に張り付いて私たちに「現前する」時、そこに何が「起こりえるか」。「モンスターと化した他者」・・・つまり〈私だ〉という語に張り付いた他者・・・これは「何もの」であるか。「他者」が「語り得ぬものそのもの」として「そこ」に「エゴーイ!」とともにある時?
2013-07-28 12:48:34ウイトゲンシュタインの「他者像」の弱さ。彼の探求の中で「他者」は「文法」と「言語ゲーム」の「中」においてのみ問題化されている。対象世界、他者「もまた」文法−言語ゲームの「外」に後退し得るという当たり前のこと。その場合それらは〈私〉とは位相の異なる、しかし「外」としてそこに現れる?
2013-07-28 13:18:24この場合の「他者」は無論第一には「私」の前に非対称性としてある「他者」(永井均のいわゆる「文法的規定によって置かれる他者」)であるだろうが、さらにその他者性はそうした文法的規定から陥没したものへと「微動後退」する「外のもの」”でもある”。その「外性」に於ける〈私〉と〈他者〉は?
2013-07-28 22:48:49・・・例えばブランショの『望みのときに』の奇妙なアパルトマンでの奇妙な「外の共生」? フーコーの『〈外〉の思考』を読み直すこと・・・。
2013-07-28 22:52:15毎度の確認。Moderneを「近代」という時代呼称としかとれない語で訳してしまったのは如何にも杜撰である。Moderneは「mode」を語根とする「形容−名詞」であり直訳すれば「流転性/変異性/非定在性・・」を意味する。少なくともボードレール−ランボーはその意に解していたはずだ。
2013-07-29 00:24:04今更ですが、誤読されたテキストがそのことによって活き活きと新たな運動を開始するならいくらでも誤読は奨励されるべきでしょう。最悪の誤読はテクストを固定し生動を殺す誤読です。テクストは安心の為に書かれるべきではないし、それ以上に、安心の為に読まれるべきではない。
2013-07-29 11:07:10例えば仮にクリプキのウィトゲンシュタイン論?が誤読であるとしてもそれがウィトゲンシュタインのテキストに或る活性をもたらしたということ、少なくとも僕にとってはそれで充分で、或いは永井さんの例えば『青色本』読解についても同じこと。
2013-07-29 13:13:28「神の創造にかかる以上この世界は本質的に透明な真理の編み目で織られている」という信奉が、仮に「欧米の」哲学者が無神論者であっても、その哲学者の「無意識」を運動させているはずだと、僕は思ってますから、だから例えば分析哲学は僕は一種の神学だと思っています。 実に平凡な確認ですが。
2013-07-29 13:20:22例えばクリプキやウィトゲンシュタインの様なユダヤ系の哲学者において世界は「出口のない真理閉鎖系」として置かれると同時に、「その閉鎖に於いて外へと震える」編み目の球形となるに違いない・・・と、僕はさしあたり「予想」して理解し嘉納することにしています。素人の好き勝手ですね。
2013-07-29 13:25:48一方その哲学者がキリスト教系、とりわけカトリック系であれば、世界は真理の閉鎖系であると同時に「外部の神」に連結するバイパスを持つ「筈」のものとして置かれるでしょう「から」、彼らはその存在を信じ希求する哲学者と成るでしょう・・・といった具合です。
2013-07-29 13:33:02Hacker"Insight and illusion”。邦訳があんまりに高価で、って原文も結構高価、安いのを探しまわった結果、届いたのはどうやら図書館落ちの上にどうも水を被った跡がある。充分読めますので文句無し。因にこの本には改訂版があるようですが届いたのは改定前のもの。結構。
2013-07-29 14:44:47・・・同じく世界の被造性を置くイスラムはしかし、13世紀に世界の合理真理性の探求の禁令を出し、以降世界は「アモルフな補足不能・超越論的真理体」として置かれ・・・真理探究は分析的認識の手を離れ、例えば「シムルグの鳥」たちに任せられる?・・・
2013-07-29 14:50:23モラン『人間と死』に於ける「王」の定義へのバタイユの批判。モランは王を「死を恐れぬ強者」であると、素朴な定義を下す。それに対してバタイユは「王とは自らを死に捧げる者」であると言う。これは決定的に異なる主張だ。永井さん風?の論を援用すればモランの王は「私」の強大化としての王であり・
2013-07-29 22:28:05・・バタイユの王は言わば「死へと同化する」ことにおいて、〈私〉つまりは如何なる言語にも覆われない直接的な〈私〉として自らの「独我論的全世界性」を開示しようとする倒錯した欲望そのものであると解される。狂気と化し狂気として内破的に分節言語を破砕し呑み込み膨らもうとするものとしての王!
2013-07-29 22:28:35或いはアルチュセールにおいて〈私〉は「実在依拠的/概念依拠的「私」」によって「隠される」のではなく「収奪される」ものとして直覚されていた。従って〈私〉は「奪回されねば成らないもの」と捉えられていたに違いない。「私」と〈私〉の断裂はそのヴィジョンにおいて一挙に「政治化」する・・・
2013-07-29 22:43:26ええと、今現時点での永井さんへの言及はあくまでも思いつきの粗メモで、まあ、著作を二三回読み直してからも少し精密に考えます。・・・ああ、ちょっと横道ですが、宇都宮ブリッツェン、大変でしょうが・・・
2013-07-30 01:03:58別に、新たな主張(!)を探して永井さんを読んでいるわけではありません。その「独特の独我論」と言われている?かも知れないものは例えばブランショに全く別の口調ですが読み得るので、逆に言えばそのブランショとは別の口調でそれが永井さんにおいて語られる、その語られ方に魅惑されているわけです
2013-07-30 09:37:04『論理哲学論考』から中期、後期へと「語り得ぬもの」が外へ外へとより微細に押しやられ「語り得るもの」の全面化が計られたと、仮にそう言い得るのであれば、しかし奇妙な皮肉によって「語り得ぬもの」は例えば「日常−言語ゲーム」の隅々にまで「その陥没として」浸潤することになる、と僕には見える
2013-07-31 10:11:53要はまあ、王はそれが「否定的に呑み込む」ことになる「奴隷」によって自らを支えるという意味では「奴隷の配下に入る」というヘーゲル主義のパラドクスの指摘に過ぎないだろうが・・・・
2013-07-31 10:14:24・・・何はともあれ道元は永平寺に「籠った」。その「サンガ空間」をしかし仮説的に「街路」に降ろす、とすれば? 再度ラカンの、「革命とは構造が街路に降りるということである」という言明?を検討すること・・・・
2013-07-31 10:21:22・・・例えばクワインの弟子筋のエリート集団が大統領府のスタッフの一部を構成しているということは多いに有り得ることだ。或いはサンデル筋がそこに参入することも想像不可能ではない。ネグリが指摘したようにフランス政府中枢にはフーコーを熟読する者たちが配置されていた(これは有り得ることだ)
2013-07-31 10:30:28「哲学的SF」とも言えるが「西欧」では政治体制全体が一種の「哲学的紛争」の性格を持ち得るわけだ。ドゴールは彼の最初の大きな公務がヴァレリーの「国葬」であったことを矜持としていたのだし、或いはフランス文化省はメシアン『死者の蘇りを待ち望む』の委託実現を矜持としていたかもしれない
2013-07-31 10:44:14・・・孫文が南方熊楠をその政府構想のアドヴァイザーとして臨んでいたという「伝説」がある。まあ、孫文が熊楠さんを尊敬し、面談を求めていたのは事実。もっとも一二通の手紙が残っているが、その面談は持たれなかった筈である(調べること)
2013-07-31 10:47:50