CASキャズの展覧会『ハルトシュラ mental sketch modified』のアーティスト・トーク後の感想
クールベは何かの役者に扮した自画像を何点か描いています。『詩人』『チェリスト(音楽家)』『傷ついた男(戦士?)』などといった様々な「美しい姿(ボードレール)」を「魔法の鏡(キャンバス)」に自分を写し見つめていたのかもしれません。当時でもコスプレ文化が花開いていたのか?
2013-07-27 12:17:19しかし自画像であるといっても、その状況は不可能な状態であるといえます。たんに鏡を見て描いた自画像ではない。自画像には絵筆の代わりに、パイプや楽器の弓を持っています。ちゃんと鏡像になっています。鏡を見て描く行為が自画像であるとすれば、『傷ついた男』は自画像ではない。自画像とは何か。
2013-07-27 12:17:35私たちはそこに画家の存在を疑うことなく信じるが、一方で自画像としては不可能な状態に画家の不在を感じる。「クールベの自画像においては、観者による絵画イメージと対象となるモデルの同一化は拒絶されており、画家の眼差しや身振りは、鏡として絵画の外の観者や製作者の姿を反映することなく、
2013-07-27 12:17:58いわば眼差す対象をもたない眼差しとなってします」(石谷治寛『幻視とレアリスム』)。バルトの『明るい部屋』で写真において「それはかつてあった(いまここではない)」と死が内在される形で愛(母への思い)が語られる。肖像画はときに遺影となる。写真(自画像)の不在感覚。
2013-07-27 12:18:12自分の寝ている姿を見たいと思うなら、一番簡単な方法はそれを写真に写せばいいだろう。19世紀前半に発明された写真は芸術に大きな影響をあたえています。クールベと同時代の文学者ヴェイは1851年にヘリオグラフィ協会(ドラクロワも所属)を設立し、論文『芸術としての写真』を発表しています。
2013-07-27 12:18:28写真が登場したときに、その迫真性が議論になったときに、「素描のように」(「写真のように」ではなく)似ていると言われていたそうです。ヴェイは写真における現実性は、正確さにではなく「似姿」が必要であると言います。「機械的な複製ではなく、記憶の助けによって人が想像する対象のイメージに
2013-07-27 12:18:47応じた解釈」「物質的な事実とは異なり、抽象的なイデア」であるとします。その現実性について、ボードレールは「芸術とは美の記憶術である。ところが、正確な模倣は記憶を損なう」と言い、「写真は記憶のはしために過ぎない」とその芸術性を否定します。そしてボードレールは、
2013-07-27 12:19:03「優れた真の素描家たちはみな、彼らの頭脳に書きこまれたイマージに基づいてデッサンするものであり、自然に基づいてするのではない」。「一個の理想、それは、個体によって矯正された個体、絵筆もしくは鑿によって再構築され、自ら生来もつ調和の真実ヘと戻された個体なのだ」と語っています。
2013-07-27 12:19:19写真とは真実を写すものではない。クールベにおいてもその認識はありました。写真のようだと批判されたクールベは「重要なのは、私が描くということではなく、私が描くもののなかに私に関わる物事を置くことなのだ」と反論しています。「絵筆によって再構築」「事物を置く=インストール」ということ。
2013-07-27 12:19:47「19世紀半ばにおける身体感覚の現実性をめぐる言説は、新しく芽生えつつあった個人や自我の構成と切り離しがたかったが、内なる他者に耳を傾けること。あらゆる同一性を欠き、錯覚や幻覚を生み出しかねない、不確かな身体感覚の現実性。(それが)自我の基盤となるのだ。」(『幻視とレアリスム』)
2013-07-27 12:20:00【参考文献】 松浦寿夫、岡崎乾二郎『絵画の準備を!』、石谷治寛『幻視とレアリスム』、三浦篤『近代芸術家の表象』、デリダ『盲目の記憶』、リュック・ナンシー『肖像の眼差し』岡田温司『肖像のエニグマ』など
2013-07-27 12:20:07@rob_art 質問に答えるのにかなり時間が長くなりました。僕の展覧会の感想を辻さんがまとめてくださっていますので、そちらと合わせて感想をいただけると嬉しいです。ロバトさんは、この『傷ついた男』について何か思うことはありますか。 http://t.co/sAT9UK0yXU
2013-07-27 12:21:23@rob_art どちらかと言えば、僕としては、CASのトークの時に、ツイッターを使った富井さんの『今日の彫刻』について話していたことをもう少し詳しくお聞きしたいです。僕の中ではこの展覧会で一番の重要なポイントだと思っています。
2013-07-27 12:23:35「肖像は、別離や死といった不在に際して、その人の面影を留めるためにつくられる。肖像は、不在者の現前であり、不在における現前である。それゆえこの現前は顔立ちを再生しようとするだけでなく、不在者として現前を現前化させること、退隠を露呈させることをも担っている。」リュック・ナンシー
2013-07-27 12:25:12「(肖像において)あるい人を表象するとは、その人自身としてであって、アトリビュートや帰属関係としてでもなければ、その人にかかわる行為や関係性としてでもない。肖像が対象とするのは厳密な意味での絶対的な主体、他の一切を剥ぎ取り、いかなる外在性をも取り去った主体である。」ナンシー
2013-07-27 12:25:16「何よりもまず、肖像はまなざすものである。肖像はただまなざすことしかしない。肖像は、眼差しへ自らを集中させ、眼差しへと自らを差しだし、眼差しのなかに自らを失う。肖像の「自律性」は、タブローを、つまり顔の全体をそのものを眼差しの中へとりまとめ、閉じ込める。眼差しは自律性の目的だ。」
2013-07-27 12:25:23「眼差しは、いかなる対象もまなざしていはいない。それはつねに、画家/観者のほうを向いているが、もしくは不特定の外部へと向いている。時には眼差しが、自己に没入していたりすることもある。それは無をまなざしている。肖像の眼差しはいかなる対象をまなざさず、主体の不在に潜りこむ。」ナンシー
2013-07-27 12:25:28「身元確認のためのイメージはそのモデルに関係づけられるが、肖像はただみずからにだけかかわる。というのも肖像は自己のみに、すなわち、まさに他者としての自己のみにかかわるからである。この自己こそ関係性が生じる唯一の条件なのである。」(ジャン=リュック・ナンシー『肖像の眼差し』)
2013-07-27 12:25:35「私はあらゆる体系的な精神の外で、定まった党派なしに古代人と近代人の芸術を学んできました。私はもはや一方を真似するのを望まないのと同様に、他方を模倣することも望まなくなりました。さらに「芸術のために芸術」という無益な目標に到達することも私の考えではありません。そうではないのです!
2013-07-27 12:27:17私は単に伝統についての完全な知識のなかから、私自身の個性について理にかなった独自の解釈を引き出したいのです。可能にするために知ること、それが私の考えでした。己の評価にしたがい、己の時代の風俗、思想、外観を翻訳できるようになること[一人の画家であるのみならず、一人の人間]。
2013-07-27 12:27:23@RC_Dialogue お疲れ様です。色々参考文献にあたっていただきありがとうございます。杉村さんが多々引用されましたように、非安定的な身体から我々は出発しなければならないわけで、クールベの天使の発言が単に「見えるものだけを描く」という時代の切断面として捉えることができない
2013-07-27 12:29:00@RC_Dialogue ことが見えてくると思います。文献渉猟の重要性は論を待たないですが、引用を並べるに留まらず、そこからぜひご自身の考えを紡ぎだして頂ければ幸いです。
2013-07-27 12:34:03@RC_Dialogue 今日の彫刻はある限定された時間だけ彫刻に見えてしまうことがあり得ることがわかる作品だと思っています。他の作品でも、自分の身体すらも客観的に、彫刻としてみることが可能なのかという問いがみえます。不自然な指の絡ませ方、指示書による人の絡み合い。
2013-07-27 12:49:09@RC_Dialogue わむらもはそういう意味では作家性や制度により依拠しているといえます。わむらもは鑑賞者に作品かどうかを委ねているのではなく、鑑賞者がそれをどう捉えようと、少なくともわむらもはそれが作品だと思ってるわけです。また、わむらもの作品は彫刻ではないですね。
2013-07-27 12:53:24