昨日発生していたサイトログインできない不具合は修正されております(詳細はこちら)

〈好運〉への意志と〈悪〉への意志-バタイユ論-

2
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

私の考えでは、文学とは本質的なものか、そうでなければ、何ものでもないものだ。ところで、文学の表現するものとは、まさしく悪-悪の極限形態-なのだが、その悪こそ、私達に取って至高の価値を持つものだと私は考えている。しかしそうだからといって別に道徳の不在を主張しようというのではない。

2010-09-23 23:34:30
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

むーさんが引用されてた箇所について。文学の表現するもの=悪の極限形態=至高の価値を持つもの→至上権の行使。この場合の悪というのは多分、キリスト教的価値観からすればそう位置づけられるもの、ってことじゃないかと捉えていたが。

2010-09-23 23:47:51
ㅤ❑開放から素晴らしくシャープでボケも非常に東芝 @MUMUMU4yyk

そこで超道徳〝イペルモラル〟がでてくる。そして悪の例としてサディスむが>まさしく悪-悪の極限形態-なのだが、その悪こそ、私達に取って至高の価値を持つものだと私は考えている。しかしそうだからといって別に道徳の不在を主張しようというのではない。 (via @Abraxas_Aeon)

2010-09-23 23:52:03
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@MUMUMU4yyk 超道徳を要求する、の文脈だよね?うーん、この言葉は個人的に、キリスト教的神とか道徳の理念を前提にそれを「侵犯(違犯)する」ということと関わってるんじゃないかなと思うんですが。

2010-09-23 23:57:42
ㅤ❑開放から素晴らしくシャープでボケも非常に東芝 @MUMUMU4yyk

@Abraxas_Aeon もしかして、自分の罪にふくさざるを得ないって最後の審判!?

2010-09-24 00:00:40
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@MUMUMU4yyk いや、「自分の罪に服さざるを得ない立場に置かれている」というのは「西欧キリスト教社会では」そうならざるを得ない、ということだと思うんだけども。西欧においてキリスト教社会が「現実の世界」において根づいているのは紛れもないことであるわけだから。

2010-09-24 00:08:26
ㅤ❑開放から素晴らしくシャープでボケも非常に東芝 @MUMUMU4yyk

@Abraxas_Aeon うーん…… やっぱりキリスト教ってよくわからない……! おいかける程逃げてく。これはヴェイユのオビのキャッチコピーでもあるけど。

2010-09-24 00:10:38
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@MUMUMU4yyk そこがキリスト教が根づいている社会とそうでない社会とで実感がわかないねってことなんだろうと思うんですよね…。って言いつつ私も幼稚園がキリスト教だっただけですが。罪の告白とか年中やらされてました。経験則的なことについては秘め姫さんのほうが詳しいと思います。

2010-09-24 00:18:15
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@MUMUMU4yyk あ、でもヴェイユのキャッチコピーなのか、そうだとするとニュアンス違ってくるか。

2010-09-24 00:18:51
ㅤ❑開放から素晴らしくシャープでボケも非常に東芝 @MUMUMU4yyk

@Abraxas_Aeon 自分もカソリックでした。けど、朝ろうそくの炎消したい人手を上げて~とかそういうのしか記憶にないです。罪の告白とかそこまでじゃなかったなぁ…

2010-09-24 00:22:37
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@MUMUMU4yyk ともあれ、バタイユのあの冒頭文は多分単純で、現実世界にキリスト教道徳が根づいているのを前提に、その価値観に即した形で、文学に見られる人間存在の本質について、説明しようとしていると思います。「道徳の不在を主張しようというのではない」ということと併せてみても。

2010-09-24 00:30:43
ㅤ❑開放から素晴らしくシャープでボケも非常に東芝 @MUMUMU4yyk

バタイユ伝、後編は地味だ ここからピックアップするよりというか著作を読め!という感じだな。

2010-09-24 00:46:29
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

文学が本質的なものか、そうでなければ何ものでもないものだ、というのは、多分バタイユが「文学」に何を見ているかということを見ればいいのだと思う。多分単純に、「彼が捉えているところの文学」は人間存在の本質を暴露してしまうもので、そうでない文学は文学などではない、とでもいいたいのだと。

2010-09-24 01:03:35
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

当のむーさん寝ちゃったから続きは今度にしよ・・・。

2010-09-24 01:12:00
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

いいや、書いといてトゥギャりにまとめておくことにしよう。-誰得のバタイユ論-。

2010-09-24 01:25:16
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

おさらいっぽくなるが、エロティシズムとは人間の意識の中で、人間における存在とは何かを問題とするとある。その存在の本質(或いは真理)についてバタイユはサドを取り上げ、生[=死]だと述べたり、悪徳だと述べたりするが、まず根本的にはフォルス(力)、或いは暴力である。

2010-09-24 01:56:20
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

キリスト教的世界においては聖(暴力の世界)と俗(理性の世界)の概念が逆倒した。『エロティシズム』の中で描かれたうちの一つにその聖俗概念の逆倒の歴史がある。キリスト教の成立と共に理性が善なるものであり、神聖なものとなった一方、暴力は悪なるもの、涜聖的なものとなる。

2010-09-24 02:03:12
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

バタイユが『文学と悪』の冒頭で説明しているのは、このキリスト教道徳の価値観が西欧社会の「現実の世界」に根づいているということを前提にしての話だと先程書いたが、この「現実の世界」で要求される人間の行動において、存在の本質であるフォルス・暴力は悪徳であり、涜聖的なものだといえる。

2010-09-24 02:08:58
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

キリスト教的道徳観の根付いた「現実の世界」においては、人間の存在の本質[=暴力]がそもそも罪深きものであり、悪であり、それは新約聖書の神を裏切り、冒涜するものであるから禁止される。が、それは違犯への欲望を高める。

2010-09-24 02:27:19
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

『エロティシズム』の中では、「かつての」聖の時空における宗教的儀式の後釜として、文学が取り上げられていた。キリスト教的道徳観が根付いた現実の世界においては禁止され許されないために、高まる違犯への欲望が虚構の世界に向けられることになる。

2010-09-24 02:39:08
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

「文学の本質」「文学の表現するもの」「文学が無垢のものではなく、元々罪深いもので、ついには自分の正体を暴露せざるを得ないもの」というのは、存在の本質がフォルス・暴力であるということが「虚構の世界」で暴露され、その行為がキリスト教的世界観では冒涜的行為に値するということである。

2010-09-24 02:46:25
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

『文学と悪』のエミリ・ブロンデ『嵐が丘』について論じた文の中では、「禁止に対する違犯」について、その文学が、キリスト教的道徳観に即してエミリ・ブロンデの「道徳への挑戦」[=超道徳から派生してきたもの]といわれている。

2010-09-24 02:53:49