『存在論的、郵便的』でのデビューがなければ東浩紀の現在の地位はなかったはず、といいうるほどに、日本のネット民の権威志向は重篤ではある。『存在論的、郵便的』自体、デリダのハイデガー化であって、「郵便的」の名の下に存在(存在者と存在の差異)を語ったにすぎなかったのでは?と思いもする。
2013-07-24 20:02:53『批評空間』に東浩紀をデビューさせた柄谷行人・浅田彰にすら(むしろ「にこそ」)存在論=疎外論思考が生き延びてしまうのが諸悪の根源だろうか? 単独者(柄谷行人)あろうとする、スキゾ(浅田彰)であろうとする、という態度・志向はもちろん、黴の生えた存在論=疎外論の焼き直しにすぎないのだ
2013-07-24 20:10:14.@kova41デリダの政治性の(日本国内なら高橋哲哉・鵜飼哲的な読みの)排除は問題ですし、それ以上に、実際のデリダのテクストが他者のテクストへの執拗な「文芸評論」であり、デリダは日本における文芸評論の意義をつとに強調した柄谷行人以上にも「文芸評論家」であった現実の無視が疑問です
2013-07-24 20:20:09.@kova41 東浩紀に限らないですが哲学的な「環境」云々のあの種のジャーゴンは、すべてハイデガーに還元されてしまうのではないでしょうか。高踏的に見えても通俗的なハイデガーの「語り」に。本当に「読む」べきテクストを徹底的に読むことしか、アイロニーの隘路を抜ける道はないと思います
2013-07-24 20:31:29.@kova41精神分析もまた「本来的な」欲望とそこからの疎外の論に容易に帰着してしまいます。東アジアでは儒教を、儒教から、問うことが不可欠です。小島毅氏の「檄文」「靖国史観』は三島由紀夫と村上一郎に言及することから始め論理的に靖国を問いますが、『論語』とは東アジアの「論理」です
2013-07-24 21:00:11.@kova41 東浩紀がデリダ以外の誰かの文章を徹底的に読み解いた(デリダがそうしたように)ことはありません。またそもそもデリダのテクストさえも、彼自らの「思想」のためのジャーゴン(ネタ)にしただけだったのかもしれないと思います(ハイデガーがニーチェに対してそうしたように?)。
2013-07-24 21:18:32.@kova41 さらなる問題は、柄谷行人もまた、徹底的に「読んだ」のはマルクスのみだったのでは???という疑問が拭えないということです…マルクスから労働疎外論を外した功績は大きいにしても…漱石論で疎外論を回復してしまっています…
2013-07-24 21:51:09