清洲会議

織田家の『次』を決める清洲会議について。
2

7月16日

いつものおはようございます。

さき @masakishibata

清洲会議の日におはようございます。織田家の後継者に秀信が収まるのは既定路線で本題は各重臣が尾張・美濃・近江・丹波をどれだけ切り取れるかと秀信の後見人の立場になれるかであったという主張だけして続きは夜に。

2013-07-16 09:13:29

本題に入りますね。

さき @masakishibata

清洲会議の話な。清洲会議とは1582年7月16日に開かれた織田家の後継者問題領地の再分配に関する会議のことです。本能寺の変で討死した織田信長・信忠の後継者を決めること、そして統治者不在となった両名および明智光秀の元領地の分配方法を決めること、が議題となりました。

2013-07-16 21:03:21
さき @masakishibata

会議の参加者は織田家の重臣中の重臣である柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興の4名。彼らと同等の地位であるはずの滝川一益は不参加で、神流川の戦いでの敗戦の咎めで参加を拒否された説があります。

2013-07-16 21:03:54
さき @masakishibata

最初の議題である『織田家の後継者問題』については、勝家が推す神戸信孝(信長の三男)と秀吉が推す織田三法師(信忠の嫡男)が候補に上がります。結論だけいいますと、三法師が後継者に決定。勝家以外の3名が支持したことと嫡流であることが決め手になったと考えます。

2013-07-16 21:04:16
さき @masakishibata

実際には光秀討伐の功績によって秀吉の家中での発言力が驚異的に増したことのほうが大きな理由だと思いますが、それにしても討伐戦では信孝を名目上の総大将にしておきながら後継者問題では三法師を推すあたり、秀吉のしたたかさが窺い知れます。

2013-07-16 21:04:32
さき @masakishibata

次に『領地の再分配』。本能寺の変後の混乱で織田家が失った領地は、上野(一益が敗走したため)・甲斐(河尻秀隆が一揆勢に討たれたため)・信濃(森長可が美濃に逃亡したため)の3国。そして統治者不在となった領地は、尾張美濃近江南国・丹波の4国です。この統治者不在分の再分配が議題です。

2013-07-16 21:05:18
さき @masakishibata

こちらも結果だけいいますと、美濃は信孝が、尾張は北畠信意(織田信雄、信長の次男)が、丹波は羽柴秀勝(秀吉の養子、信長の四男)がそれぞれ相続。勝家は旧領安堵に加えて近江3郡を、長秀も旧領安堵に加えて近江2郡を、恒興は摂津から2郡をそれぞれ加増されました。

2013-07-16 21:05:40
さき @masakishibata

織田家後継者の三法師は近江1郡と安土城を相続信孝がその後見人となります。最後に秀吉は自領の近江北部3郡を勝家に割譲する代わりに山城一国を相続し、養子の秀勝と合わせると重臣の中では最大の加増となっています。

2013-07-16 21:06:10
さき @masakishibata

わざわざ解説するほどではありませんが、清洲会議の結果から読み取れるのは織田家中における秀吉の発言力が著しく増したこと。そして、筆頭家老である勝家の発言力が相対的に低下したことです。また、勝家以外の重臣が秀吉に付いたことも大きな変化といえるでしょう。

2013-07-16 21:06:24
さき @masakishibata

本能寺の変から僅か1ヶ月。秀吉が(当時の実質的な中央政権であった)織田家の実権を握り、自身の政権を打ち立てるスタートラインに立った瞬間でした。

2013-07-16 21:07:06