- ttt_cellule
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@hominis_nomine 蓮實は、少なくとも初期にはブリコラージュするようにして、いくつもの領野から換骨奪胎しながら自分の枠組みを作っていたのではないかと思うんですよ。彼が70年代まで読んでいた仏文芸批評は精神分析と現象学の交差する場所だったわけで、
2013-09-17 21:52:08@hominis_nomine 彼自身の語彙に現れてはいないにせよ、無縁だとは思えない。密輸入という言い方が糾弾的に映るのなら「同時代的に刺激を受けつつも、明確には出来ないままに取り込んでいたのではないだろうか」とかでもいい。
2013-09-17 21:52:58@ttt_cellule 密輸入という表現は的確だと思うのです。僕がちょっと興味を惹かれるのは、tttさんご自身の、「映画に対する精神分析の適用」に関する考え方なのです。これは本題から逸れてるからお答えいただかなくていいですが。僕は蓮實の擬似精神分析的効果に批判的であり、
2013-09-17 21:55:40@hominis_nomine その点まだ私も立場が定まってないのですが、作者や登場人物の精神分析ではなく、蓮実がテマティスムと自称した動作や事物の再構成の操作自体は一見非性的に見えるけど、そこで現れる形態の主客の対象関係はクライン派とは繋がりうるのかなと朧げに思ってる程度です
2013-09-17 22:00:19@hominis_nomine あの記事では、精神分析そのものを持ち込むというよりは、経験が成立する際の局面の類似を言う段階ですね。実際に映画に対して精神分析手法を持ち込んでいるわけではない。患者に相当する場所を措定するときに悩むというのもありますし。
2013-09-17 22:02:21@hominis_nomine 言われて気づきましたが、私は映画作品にどのような手法を持ち込むべきか、という関心はむしろ弱いところがありますねw
2013-09-17 22:04:50@ttt_cellule 蓮實言説に限らず、映画批評にしばしば「官能性」の指摘がある一方で、そうした判断の根拠について多くの批評家は何も言えないのを僕は常々へんだと思っていたので、蓮實言説の再検討からこのへんを考える手がかりが出てきたらおもしろいと思ったのです。
2013-09-17 22:05:13@hominis_nomine 官能性は性的な意味合いもあるんでしょうけど(対象が人であれなんであれ、取り巻く言葉は異性愛的な「愛の対象」のそれですし)、同時に直接性・現前性の言い換えでしょうね。蓮實のドグマの一つは「身体への現れ」による根拠付けにある。
2013-09-17 22:08:17@ttt_cellule 精神分析について話し始めたらたぶん収拾がつかなくなるのでこれくらいにします。蓮實言説がもたらした「精神分析的効果」という歴史的な現象についてのご指摘は正しいと思います。
2013-09-17 22:13:18@hominis_nomine この圏域を語ってもイノベーションにならないだろうと考え、これまでは人に話しはしても記事にする気にならなかったんですが、黙っておくより書いたほうがいいかなあぐらいの判断でつい書いてしまいましたよ。蓮實手法については前回記事のときの方がこだわってました
2013-09-17 22:16:21@ttt_cellule いや、おもしろかったです。ご本人(貴兄)が飽きてしまっているのにつきあわせてすみませんでした。
2013-09-17 22:18:28@hominis_nomine マゾヒズム的段階については、たまたま最近ベルサーニを読んで、説明として使いやすく、実際無縁ではなさそうなので使ったんですが、数年前は「複雑すぎる認知によってホワイトアウトする」とか「にもかかわらず刺激の増大を受け止めようとする」とかで語ってたなあ
2013-09-17 22:21:08@ttt_cellule マゾヒズム的段階そのものが、蓮實批判をおいても十分おもしろいですよ。蓮實映画批評のすべてが悪いなんて、さすがに僕も考えてはおらず、あの徹底的な受動性には学ぶものがありますし、そこから新たに引き出される観点や言説があると思います。
2013-09-17 22:24:46