01 2013-09-20

まとめ
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みそむーおでん @misoni_2013

ポンチ絵は一コマもあれば、時間経過のある連続する絵もあった

2013-09-20 19:45:18
みそむーおでん @misoni_2013

西洋のカリカチュアと比べるとポンチ絵は絵師(絵)と戯作者(文)がそれぞれ対等であるという差異がある。

2013-09-20 19:47:09
みそむーおでん @misoni_2013

ポンチとして、圓圓珍聞(マルマルチンブン)=マルチン。 本田錦吉郎による絵の余白を埋めるように文。戯作者なので七五調で音声の言葉遊びが入っている。音読前提。 絵だけで自立せず文章がある。

2013-09-20 19:51:09
みそむーおでん @misoni_2013

言葉遊びの表現が絵の表現へ。 絵自体に本質的意味がなく単なるダジャレ。 そして文章が減り、それを読み込まなくても楽しめるようになっていく。

2013-09-20 19:54:40
みそむーおでん @misoni_2013

ポンチ絵はもともと余白に書き込まれた文字を読み込み、音読して初めて楽しめるもの。 一コマだが長い時間をかけて楽しむ。 マルチンの読者は、文字が読め、教養があることが前提で、狭いコミュニティーで読まれていた。

2013-09-20 19:56:57
みそむーおでん @misoni_2013

ビゴー「TOBAE」 西洋のカリカチュアは絵を見るだけで一発で分かるもの。 しかしある時期にマルチンの影響かコマへ文字が入り始めるが、清水によれば、幸徳秋水が関係したからではという論がある。

2013-09-20 20:00:05
みそむーおでん @misoni_2013

浮世絵師の末裔から西洋絵画教育を受けた「画家」による一人で描く形式へ。 余白の文字が吹き出しやコマ外へ。 また七五調から散文へ

2013-09-20 20:01:43
みそむーおでん @misoni_2013

また新聞が流通したことから、江戸文化が分かる一部層ではなく、幅広い読者が素早く読めることが求められるようになった。

2013-09-20 20:02:50
みそむーおでん @misoni_2013

マルチンにおける小林清親。 文章が余白に多少入りつつも絵の力が強すぎてそれだけで成り立つ勢い。

2013-09-20 20:05:26
みそむーおでん @misoni_2013

マルチンでは明治20年代から肖像画が増えるが、名前をもじりキャラクター化した作画が行われている。似顔絵もの

2013-09-20 20:07:17
みそむーおでん @misoni_2013

マルチンで明治20年代後半から複数コマが導入。時間の推移。

2013-09-20 20:08:10
みそむーおでん @misoni_2013

時事新報の今泉(が漫画だと思う)の風刺画が掲載されるが、見れば一発でわかる。 まだまだマルチン式の絵と文章が一体になったポンチ絵が主流だった時。

2013-09-20 20:11:31
みそむーおでん @misoni_2013

複数コマのポンチが少年雑誌(少國民)へ掲載。明治23年

2013-09-20 20:14:35
みそむーおでん @misoni_2013

明治20年代になると複数コマポンチが多く出てくる。ここが変わり目かな、と。 今泉一瓢がきっかけか。 時事新報が漫画の「近代化」に重要でそれは、北沢楽天が明治23年に描くからだ、とされるが、その前に今泉がいる。

2013-09-20 20:17:12
みそむーおでん @misoni_2013

福沢諭吉は近代の新聞には絵が必要であると言っていたこともあり、今泉は渡米する。 しかし「漫画」は学ぶものでないと現地ではされていて、勉強というほどのことはできなかったようだ。

2013-09-20 20:19:05
みそむーおでん @misoni_2013

今泉は明治24年に今泉は「米国漫画士」として開業

2013-09-20 20:20:00
みそむーおでん @misoni_2013

今泉によりカリカチュアの訳語として漫画が使われていく

2013-09-20 20:21:37
みそむーおでん @misoni_2013

また、幸徳秋水がマルチンに起稿しているが、そこでアメリカの政治風刺漫画を紹介している。

2013-09-20 20:22:12
みそむーおでん @misoni_2013

今泉により漫画を美術の制度へ位置づけるということもされている。

2013-09-20 20:22:52
みそむーおでん @misoni_2013

黒田清輝の白馬会へ今泉一瓢は参加しており、狂歌・漫画として出品している。

2013-09-20 20:23:27
みそむーおでん @misoni_2013

ジャーナリズムの中に本当に西洋的な文脈を根付かせようとしただけでなく、美術の文脈にも位置づけようとしていた。 つまりそれまでの風刺的浮世絵やポンチ絵とは全然違う、もっとランクの高いものとしていたということ

2013-09-20 20:24:42
みそむーおでん @misoni_2013

北斎や暁斎など、当初は評価ない。 彼らは西洋でジャポニズム熱が高まることで評価されていく。浮世絵など包み紙。

2013-09-20 20:26:08
みそむーおでん @misoni_2013

浮世絵が「美術」で無いというのは、絵が絵として自立していないから。 ファインアートの文脈では絵は絵として、文は文として成立しなければならず、文字も絵もいっしょくたな浮世絵は美術として認められない

2013-09-20 20:27:52
みそむーおでん @misoni_2013

今泉一瓢、長原孝太郎が白馬会に出展し、その絵がそれだけで成立する(文章を排する)ものであったことから、絵画のサブジャンルとして漫画が成立

2013-09-20 20:31:42
みそむーおでん @misoni_2013

大正3年の美術事典には漫画の項が。 あいまいな定義であるがカリカチュア・風刺画の限定された意味に比べると幅広い。

2013-09-20 20:32:42