【子供のため】 弱者淘汰を正当化するための呪文について 【大人のため】
今日のゴゴゴは短めです(・ω・)
そして、昨日の短いゴゴゴの続きです。


「まだ言う必要がない話」と「言われなくてもわかる話」はだいたい同じものを指してるけど、学ぶ立場にある若年者・未成年・子供に教える立場の人は「まだ知る必要がない。大人になれば分かる」と言い、学ぶ機会がなくなった大人になると誰も教えてくれないのに「言われなくても分かれ」と言われる。
2013-10-02 01:44:53
この「まだ知る必要がない。知らせる必要もない」と「言われなくても判って当然」の間を誰が引きうけるのか。親は「学校の役目」と言い、学校は「家庭の役目」と言い、社会は「今更言うまでもない」と言い。自力で学べ、となれば、当然理解深度や基準もばらついて「基準」は共有されない。
2013-10-02 01:46:21
教える役はリスキーだから、誰も負いたがらない。例えば誰かがそれを教えようとすると、「まだ教える必要はない、自然に分かることだ、分からないのは大人としてダメな人間だ」と、周囲から【善意の制止】が入る。つまらないリスクは負いたくないから、誰も教えなくなる。
2013-10-02 01:47:59
結果、「教えられていれば死なずに済んだかもしれない者」は「まだ教える必要はない」「大人になれば自力で気付く」とされ、先人の教訓を共有する機会を得られなかったが故に、「誰かが踏み外した失敗を繰り返して死ぬ」。善意によって淘汰される側に組み込まれるのだな。
2013-10-02 01:49:00
社会は共存共栄のためにあり、教訓を共有することで群れの喪失リスクを下げる効果が期待されるのだと思える反面、「弱い個体を淘汰するために、教訓を教えない」という群れの弱さを切り捨てる行為を、後ろめたくなく行わせるために「保護という善意」を利用する。そういう仕組みなのかもしれない。
2013-10-02 01:50:29
淘汰に加担する側も、「子供の安寧のため」「子供時代を安楽に過ごさせるため」という善なる口実で自分の後ろめたさを拭えるから、「万が一のリスクから身を守れなかったときにどんなことになるか」という恐怖を教えるリスクから逃れられるし、そうした教訓を得なかった人が弱者として淘汰される。
2013-10-02 01:52:17
群れから弱者を淘汰するという目的に加担する者に後ろめたさを顧みさせることなく、短期記憶としての「正義と善意」でそれをさせる。結果、教訓を学ばない子供は淘汰される。教訓を学ばないまま成長して大人になった元子供は、子供に教訓を伝えないから、その血統は教訓が必要だった事態に弱くなる。
2013-10-02 01:54:01
「子供を守れ」「子供が可哀想」「子供の心に傷を作るな」「どうせ社会に出たら荒波に揉まれるのだから、子供時代くらいは恐怖を感じさせずに過ごさせてやりたい」どれも、微塵も異を唱えることができないほどの正しい主張だと思う。これを背にすれば、子供自身に教訓を伝えないことを正当化できる。
2013-10-02 01:55:19
まあでも、子供の社会も割と階級社会だし残酷だし手加減を知らない(誰も教えない)からやり過ぎるし、大人から見えない死角で「心だけ殺す」ことを後ろめたさなしにやったりもしている。
2013-10-02 01:56:30
「子供を大人が100%監視する」ことは不可能だと思う。できれば見守ってやって、目も手も声も掛けてやるべきなんだろうけど、血縁者や知人ではない無縁の大人がそれをやったら「変質者事案」にカウントされる恐れがある。故に、真に子供を守れるのは血縁の家族だけなんだろう。
2013-10-02 01:57:40
でも、血縁の家族だって24時間フルタイムで子供を監視できるわけでなし。子供の死因のトップは病気よりも交通事故、ついで屋内外の階段、遊具による事故が多く、子供の性犯罪なんかだと「近親者が加害者」というのが断然トップなんだそうな。
2013-10-02 01:58:55
我々は大人になる過程でいつの間にか親の保護庇護加護から逃れて、自分で自分の身を守るようになった。今子供の段階にいる人達だっていずれはそうなるんだろうけど「今言う話じゃない」「言われなくてもいつの間にか身に付く」なんて偶発性に委ねるのが、教訓を生かして生存性を上げることになるのかね
2013-10-02 02:00:55
そんなわけで、「目を離した隙に、大人(親)に見えていないところで、大人が教えるべきことをまだ教えていないうちに」、子供は勝手に死んでしまう。「子供はまだ知らなくていい」という人は、いつ彼らが子供ではなくなったと見なして教えるんだろ。自分で気付くまで教えないんだろか。それだけが謎。
2013-10-02 02:02:25
実際、「他人の子供のことなんか最終的には知ったことか」「ヨソはヨソ」「ウチの子さえ無事なら他の子に手を挙げたり、手を掛けたりする必要などない」というのは、多くの家庭にとって正しいんだろう。そこも否定せんよ。
2013-10-02 02:04:20
つまりは、「ウチの子が生き抜くためなら、他人の子供が淘汰されようが知ったことか」という、群れの弱者を淘汰することで、淘汰される側に回らずに生き延びようという、生存戦略が、群れ全体の多数の合意になってるのかなあ。今の日本て。
2013-10-02 02:05:27
ここまで要約すると、「バカは死ね」「自己責任で死ね」「生き残りがありつける椅子は人数分用意されてない。椅子の存在に気付けない奴に椅子の存在を教えてやる必要はない」「そうやって勝手に死ぬのは俺は悪くない。そいつらが悪い。だから後ろめたくなく、勝利者だから嘲笑う権利もある」みたいな。
2013-10-02 02:09:30
どうにも我々の社会は「優しい社会」に程遠い。自己鍛錬と自己責任を言う人が多いのは、自分(とその眷属)以外を救済する余力(経済的精神的法的)に欠けるからで、弱者淘汰を無意識のうちに肯定するような「善なる選択」が選ばれてるのも、質の維持のために量の淘汰を肯定するためなのだろか。
2013-10-02 02:11:57
でもこの「淘汰される側になりたくない」というのもまた、皆が一様に感じ取り望んでることなのかもしれない。誰だって殺される側、見捨てられる側にはなりたくない。どうすればそちらにならずに済むか?有能になる、必要とされる存在になるというのはポジティブな解決策だと思う。
2013-10-02 02:13:39
ネガティブな解決策は、「自分以外の誰かを無能だと指さす」「自分以外の誰かを見捨てろと叫ぶ側に立つ」。そうすると、自分以外の誰かに矛先が向かうので、自分は淘汰される側から回避できる。そういう方法で得た回避は一時的な効果しかないから、効果が切れたらまた他の誰かを指さす。
2013-10-02 02:14:57
積極的には「あいつが悪だ」「あいつが責任者だ」「あいつはずるい」「あいつのせいだ」と言ったところで、消極的には「助かる方法があるが、それを自分以外の誰か全員に教える必要などない。自力で気付かなかったそいつが悪い。自分は悪くない」といったところかな。
2013-10-02 02:16:28
最近、なんかの流れで「悪を定義せよ」って言われたんだけど、究極の悪というのは「自分以外の他人の正義」であり、その「他人の正当性を貫き通すことを赦せば、自分が悪にされる」っていう。世の中に悪なんかなくて、正義と正義だけがある。適用範囲許容範囲の広さ狭さ深さ浅さがあるだけだ。
2013-10-02 02:20:06
「なぜこういう世の中になっちゃったか」は、要するに「足切り合戦を自己責任で生き延びるのが当たり前」というのを、多かれ少なかれ、皆が「共通のルール」として受け入れてるからじゃないかなあ、とは思う。
2013-10-02 02:26:14