後漢の州刺史について
出典は植松慎悟先生の論文『後漢時代における刺史の「行政官化」再考』2008
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I9513236-00
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
州刺史というのは郡太守・国相(後漢において郡と国は名前が違うだけでほぼ同じ物。郡の長官が太守、国の長官が相)を監督するのが唯一の仕事だった。少なくとも前漢では #州刺史
2013-06-12 20:31:31
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
で、前漢末期・成帝のとき「六百石の官である刺史が二千石の官である太守・国相を監察するのは身分秩序を乱す」という意見が出て、州牧(二千石)の役職が置かれることになった #州刺史
2013-06-12 20:33:17
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
結果、州牧もそれなりの有力官となった結果、前漢~新~後漢移行期の動乱に一役買ったらしく、この時期には州牧が軍を率いた記録もよく出てくる #州刺史
2013-06-12 20:35:07
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
光武帝が力を入れた中の一つに監察制度の改革があったらしく、大司徒司直を廃止して中央官の監察を御史台一本に絞った。地方官についても、再び州牧を州刺史に戻した。ただ、戻しただけではない #州刺史
2013-06-12 20:40:21
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
前漢では、州刺史/州牧は年初には本人が都に帰って皇帝に年間報告と成績優秀な地方官の推薦をやっていたのだが、これを廃止して刺史は州に常駐することになった。といってもそれまでの業務自体を無くしたのではなく、代理の者を使いに送るようになったのだが #州刺史
2013-06-12 20:44:32
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
そして州刺史が行政官化した……とされるのだが、実は州刺史の下に仕えている役人はそれほど多くない。司隷校尉の下にいるのが37名で、それより少し少ない三十名強が州刺史の下にいる官吏である。ちなみに郡太守の部下は会稽郡だと900名ほど #州刺史
2013-06-12 20:46:39
儀狄@パブリックエネミー
@giteki
とはいえ、後漢の州刺史は俸給こそ600石だったが、皇帝の使者という扱いで、地方の儀式の際には南面することを許されるなど、権威としては相当なものだった。そうやって、中央は御史台―地方は州刺史という、皇帝直属の部下による監察体制で後漢は霊帝まで行く #州刺史
2013-06-12 20:54:32