[公開読書] コミュニティを問いなおす—つながり・都市・日本社会の未来—【プロローグ〜第1章】

コミュニティを問いなおす—つながり・都市・日本社会の未来— http://www.amazon.co.jp/dp/4480065016 2009年8月5日初版 ちくま新書 続きを読む
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「都市」とその“外部”

白川陽一 @shirasan41

●「都市」とその“外部” ヨーロッパ中国の都市の境界は「城壁」で明確に区分けされる。これがあることで無秩序な市街地の拡張を抑え、都市地域をコンパクトにするという政策が取り入れられていった。日本の場合は明確な境界がないので、広大・無秩序な地域が出来ていった。

2013-11-13 18:04:45
白川陽一 @shirasan41

これは、都市への人口集中や、後発型の産業化を成し遂げたところの特徴かもしれないので、日本だけの問題ではないかもしれないが、この視点は日本の都市問題を考える際、非常に本質的であると思われる。 ちなみに、都市の境界の問題は荻生徂徠(思想家)も指摘している(P46)。

2013-11-13 18:04:59

「市民」という概念

白川陽一 @shirasan41

●「市民」という概念 本章と深く関わるものとしてM・ウェーバー(1964)の都市論がある。彼によれば都市の本質とは、①それがひとつのまとまった「団体」としての性格をもつこと、②「市民」という“身分的資格”の概念が存在すること、であるという。これはアジア等では存在しなかったという。

2013-11-13 18:05:10
白川陽一 @shirasan41

ウェーバーは城壁について、「日本は原則としてそれは存在しなかった」と述べ、「中国は存在した」「東洋の都市にも古典古代=地中海的都市にも、また普通の中世的都市概念にも、城砦や城壁かが含まれていた」と指摘している。日本だけ城壁がないのは興味深い。

2013-11-13 18:05:19

団体としての都市

白川陽一 @shirasan41

●団体としての都市 ウェーバーのいう「団体としての都市」のイメージ。まず「都市)自治体」とは、日本では行政(組織)を思い浮かべるが、本来は「そこに住む市民全体を含んだ『団体』のことである(P53)」。そして、市民とはいわば「○○市」という団体の“社員”とも言うべき存在である。

2013-11-13 18:05:31
白川陽一 @shirasan41

だから、カイシャや家族ではなく地域を重視する現代のコミュニティとは、住んでいる市や街や地域をいわばカイシャと見立て、帰属意識や愛着をもち、それがよりよくなるように積極参加するものだといえる。この方向性がウェーバーのいう「団体としての都市」や「市民」を現代的な意味で実現するだろう。

2013-11-13 18:05:38

都市という「まとまり」

白川陽一 @shirasan41

●都市という「まとまり」 都市、あるいは地域の空間がまとまりをもって意識される5つの型。 (1)専制君主や王家による統一性 (2)中性の北ヨーロッパ自治都市のような市民的自治 (3)農村の「共」的な有機性 (4)普遍的な原理の存在(キリスト教等) (5)社会主義的な計画性や統一性

2013-11-13 18:06:05
白川陽一 @shirasan41

(1)への回帰は困難。理想は(2)が持つような公共性を発展させ、(3)のような「共」的要素も生かし、(4)のような基盤となる普遍的な原理を模索するということになる。(5)も必要だが意外に思われるかもしれない。これは既に別のところでも論じた(広井, 2009)し、次章以下でも論じる

2013-11-13 18:06:14

市民あるいは都市の排他性?

白川陽一 @shirasan41

●市民あるいは都市の排他性? 都市が城壁という「外部との境界」を持っているのだとしたら、それは農村型コミュニティとどう違うのか?それは以下の2点において違う(P61)。

2013-11-13 18:06:36
白川陽一 @shirasan41

(1)「都市型コミュニティ」も「農村型コミュニティ」も、無制限に「開かれた」ものではなく、その“外部”をもっている。しかしながら、いわばその界線の引き方、言い換えれば成員の間の「つながりの原理」において両者は異なる。

2013-11-13 18:06:43
白川陽一 @shirasan41

(2)「都市型コミュニティ」と「農村型コミュニティ」は、それぞれが長所・短所(あるいは強さと限界)をもっており、両者はある意味で補完的であって、最終的にはその両方が必要である。

2013-11-13 18:06:54
白川陽一 @shirasan41

結びつきの原理は、農村型は「共同体的な一体感」。つまり、情緒的かつ非言語的なもの。換言すると「場の共有(それは物理的な場もあれば意識的な場もある)」。これは究極的には地球レベルにも拡大しうる。 対して都市型のつながりは言語的・規範的個人をベースとする公共意識」を実質としている

2013-11-13 18:07:16
白川陽一 @shirasan41

都市型は、普遍的なルールや原理・原則(基本的理念)がベース。このルールを守れば誰に対しても「開かれている」(「市民」が資格・メンバーシップであるというのは、ここからきている)。そしてこれは潜在的に能力主義的な排他性・差別を含む。

2013-11-13 18:07:28
白川陽一 @shirasan41

まとめると、農村型は「水平的な排他性(ウチとソト)」、都市型には「垂直的な排他性(資格があるかないか)」がある。 ところで、実際の歴史上のコミュニティは、農村型と都市型はハイブリットな形で存在してきた。だからこそ(2)の視点の様に、両者は相互に補完的なものだという認識は大事である

2013-11-13 18:07:40
白川陽一 @shirasan41

都市型は「開放性」では長所をもつが、それを支えるのは規範的・理念的なルールや原理であり、情緒的なものではない。しかし、人間は情緒的・感情的な次元ももつ生物だから、一体感も必要である。ただしそれは状況の変化に弱かったり、閉鎖的・排他的という性格ももつ。だからバランスが大事である。

2013-11-13 18:07:49
白川陽一 @shirasan41

このことはプロローグの「関係の二重性」にも関わってくる。人間のコミュニティとは、互いに異質の、集団内部の関係性(農村型コミュニティ)と外部との関係性(都市型コミュニティ)の両方をもつことという点が本質である。

2013-11-13 18:07:57