帰ってきたおっさんの江戸薀蓄(忠臣蔵編)

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Randy Hickey @randy_TSK

更に噂には尾ひれが付きますので、「内匠頭の癇性は母系のDNA説」もあります。内匠頭の母方の叔父(鳥羽藩主)が将軍家法要の際にキレて上役に斬り付けて殺害するという事件を起こしており、ここからその説もでてきます。

2013-11-14 08:52:44
Randy Hickey @randy_TSK

さて、松の大廊下での刃傷を一番詳しく観ていたのは旗本で大奥観台所付留守居番の梶川与惣兵衛です。将軍家御台所の使者ですから、勅使へ御台所(公家出身)へのお使いの役目の関係上吉良上野と打ち合わせする必要があった方です。

2013-11-14 08:58:58
Randy Hickey @randy_TSK

松の大廊下で吉良と立ち話をしていると、吉良の後ろから「遺恨覚えたるか!」と抜刀し迫る浅野内匠、という状況だったとか。ドラマでは、内匠頭を羽交い絞めにしてる人ですねw ホントに言ったかどうか不明ですが「殿中でござる!」の名台詞の方ww 「武士の情けでござる、せめて今一太刀ぃいいい」

2013-11-14 09:03:29
Randy Hickey @randy_TSK

「五万石捨てれば五百石拾い」と揶揄されましたが、梶川はこれで五百石加増され槍奉行に栄転します。

2013-11-14 09:05:28
Randy Hickey @randy_TSK

刃傷後、老中が梶川に「吉良は脇差に手を掛けたか? 口論有無は?」と確認をしたそうです。 勿論口論も無く吉良は背を向けて逃げ出しますから脇差に手を掛けるまでも無かった訳です。実はここがポイントで、「喧嘩両成敗」が適用される為には「当座の喧嘩」の有無が立証される必要がありました。

2013-11-14 09:09:11
Randy Hickey @randy_TSK

吉良は額を斬り付けられますが烏帽子の金具が防具になり重症にならず、慌てて逃げ出す所を背中にも斬り付けられます。この「敵に背を見せる」行為も実はポイントになります。刃傷沙汰の際、仮に斬りつけられた側でも、敵に背を見せ斬りつけられたという事になるとそれだけで改易・切腹覚悟です。

2013-11-14 09:14:06
Randy Hickey @randy_TSK

事実、討ち入られた際に吉良上野の跡取佐兵衛は背中に傷があった事を咎められて信州に流されて非業の死を遂げます。彼は逃げた訳でもなく、多勢に無勢で囲まれただけであった事は事後に赤穂浪士も証言してるのですが。

2013-11-14 09:16:21
Randy Hickey @randy_TSK

赤穂浪士の討ち入りは幕府の片手落ち裁決(当時の言葉では片落ち)に反発しての義挙と言われますが、この片落ちは「喧嘩両成敗」によるものなのかどうかは疑問が残る所です。「御場所柄をも弁えず」刃傷に及んだ罰があるならば、武士ともあろうものが背中を斬られる事に何の咎めも無い事は確かに不公平

2013-11-14 09:21:36
Randy Hickey @randy_TSK

確かに、「遺恨がある」とは言っていながら理由を言わなかった浅野内匠頭の尋問を早々に切り上げて即日切腹の上改易断絶というのは拙速に過ぎる判決であった事は後々将軍家(綱吉公)も相当後悔したのではありますまいか。

2013-11-14 09:25:20
Randy Hickey @randy_TSK

しかしながら、「勅使・院使を迎えての大事な儀式の当日にやるなよ空気嫁!」って打ち切れる将軍家の気持ちも少しは判りますwww

2013-11-14 09:26:06
Randy Hickey @randy_TSK

後に江戸城内で起こった、いじめられた書院番士が同僚三人を殺害、三人に怪我を負わせた松平外記刃傷事件の被害者側への処罰の厳しさから見ても明らかに「不公平」な裁定であったのですが、もしこの刃傷事件が将軍家にとって大事なイベントの当日に起こっていたらどうだったのか、とも思います。

2013-11-14 09:44:23
Randy Hickey @randy_TSK

「時は元禄十五年十二月十四日・・・」の討ち入りですが、実際に吉良の首を取ったのは誰か。ですが、間十次郎という説と、武林唯七という説があります。泉岳寺で、大石が自分の次に亡き主君の墓前に焼香させたのが間十次郎だったので、間十次郎が殊勲という事になっています。

2013-11-14 09:48:05
Randy Hickey @randy_TSK

新撰組が「赤穂浪士を真似た」とするあのだんだら模様の火事装束、あれは浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の衣装であって、実際には着ていない様です。火事装束を似せた黒装束で、人により羽織と羽織の下の着物の袖を纏める為に晒しで巻いたという説があります。

2013-11-14 09:50:22
Randy Hickey @randy_TSK

但し、全員着込み(鎖帷子)着用していたのは事実だそうで、太股に重症を追った者が一名出た以外、浅野浪士側にけが人が少なかったのはこのお陰の模様。

2013-11-14 09:51:48
Randy Hickey @randy_TSK

討ち入りの際は「火事だ!火事だ!」と叫んで乱入したそうで、吉良の家臣が寝ている長屋(大名屋敷の壁は下級家臣が寝起きする住居になっている)に鎹(かすがい)をバンバン打ち込んで閉じ込めて出てこれなくしたり、なかなか段取りが良い押し込みをされてますww

2013-11-14 09:53:27
Randy Hickey @randy_TSK

吉良屋敷の隣には旗本屋敷があり、騒ぎに気が付き塀越しに高張提灯を上げ、それに呼応して「亡き主の敵討ち、お構い下さるな!」と叫んだ浪士に高張提灯の数を増やして浪士に灯りを馳走した。という話は事実の様ですね。土屋主税が有名です。

2013-11-14 09:59:00
Randy Hickey @randy_TSK

赤穂浪士は、藩主の実父と実子を襲った訳ですから上杉十五万石が黙っている訳が無いと想定、回向院に向かいますが門前払いをされ、両国橋東詰めで上杉家の逆襲を待ちながら小休止し、その後両国橋を渡らずに本所一つ目から大川沿いに下流の永代橋に向かって歩き、亡き主君の墓のある泉岳寺へ向かいます

2013-11-14 10:03:39
Randy Hickey @randy_TSK

何故上杉家が吉良家へ軍勢を出さなかったか。TVでは家老が「軍勢を出したら幕府の思う壺、上杉家も改易にされる。」と止めたと言うシナリオが一般的ですが、どうやら赤穂浪士の人数を読み間違えた。という点が大きかった様です。

2013-11-14 10:05:19
Randy Hickey @randy_TSK

上杉家では赤穂浪士の人数を過大評価した節があり、外桜田の上屋敷の人数だけでは足りないと麻布屋敷に増援を指示、その到着を待っている間に幕府から「動くな!」と命令が来たというのが事実らしいです。

2013-11-14 10:10:49
Randy Hickey @randy_TSK

そうそう、四十七人の内、泉岳寺に引き退く途中に姿を消したと言われる寺坂吉右衛門は、実は討ち入りに向かう途中でドロンしたという説もあり、ホントの所は藪の中ですが、泉岳寺にある寺坂の墓の戒名は逐道退転居士」とされて不名誉此上ないものにされています(;´Д`)

2013-11-14 10:20:21
Randy Hickey @randy_TSK

赤穂浪士は肥後熊本細川家、伊予松山松平家(久松家)、長府毛利家(毛利の分家、今の毛利庭園の所)、岡崎水野家の四家にお預け、一ヶ月半程後に切腹となりますが、浪士の処分については随分と紛糾した様です。当時の老中首座、阿部豊後守は討ち入りを聞いて「天下の慶事である」と褒めちぎったとか。

2013-11-14 10:22:51
Randy Hickey @randy_TSK

死を覚悟の上での討ち入りも、判決が出るまで一月以上待たされてると、「ひょっとしてひょっとするかも」と思う様な事があってもおかしくありません。事実、過去の仇討ち事件で、死一等を減じて遠島、更に後に赦免、各大名家からヘッドハントされまくったという「浄瑠璃坂の仇討」事件もありましたし。

2013-11-14 10:27:34
Randy Hickey @randy_TSK

浄瑠璃坂の仇討ちとは、宇都宮奥平家中での争いが原因の敵討ち事件なのですが、・仇討ち一党が「火事装束」を着て乱入、・事後切腹せずに幕府に届出と、赤穂浪士が真似したと思われても仕方の無い位よく似た仇討ち事件です。

2013-11-14 10:30:42
Randy Hickey @randy_TSK

とまれ最後は名誉の切腹をする赤穂四十六士、巷間あれは「扇子腹」と揶揄される向きも有る様です。扇子腹とは脇差の代りに扇子を置いておき、扇子を腹に立てた時に介錯をするというもの。これは毛利家が扇子の準備をした(検視の役人に咎められ脇差に替えます)事から出ている様です。

2013-11-14 10:34:08
Randy Hickey @randy_TSK

しかし、実際に腹を掻っ捌いた訳ではなく、脇差に手を伸ばした瞬間に介錯に及んだそうです。唯一、間新六だけは諸肌脱ぎにならずに腹に脇差を突き刺して割腹したという説もあります。 戒名には皆「刃XXX信士」と「刃」の字が付けられています。(大石内蔵助だけは院号付)

2013-11-14 10:39:58