帰ってきたおっさんの江戸薀蓄(忠臣蔵編)

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Randy Hickey @randy_TSK

罪人であるので庭に畳を敷いての切腹になりましたが、浪士を厚く遇した細川家だけは、畳三枚という最高礼で切腹の場を整えたという逸話が残っています。(通常は畳二枚) 

2013-11-14 10:42:00
Randy Hickey @randy_TSK

元服前の浪士の遺児を除く、浪士の男子は遠島になりました。矢田五郎右衛門の九才の遺児は、幕府役人の前で「父と同罪と心得ていますので、介錯の方にお願いしたい事があります」と答え、居並ぶ役人が涙を抑えられなかったという逸話もあります。

2013-11-14 10:46:08
Randy Hickey @randy_TSK

大石内蔵助の男子は、討ち入りに参加しなかった子供出家させていましたので罪はなかったのですが、生まれたばかりの赤ん坊も居ました。大三郎と言うこの赤ん坊は、後に広島浅野本家に父と同じ千五百石で召抱えられます。

2013-11-14 10:49:44
Randy Hickey @randy_TSK

何よりもお気の毒だったのは吉良の跡取り、養子の左兵衛です。 討ち入りを防げなかった件、そして背中に傷を負った件を咎められ吉良家は改易、信州へ流罪の上若くして病死します。忠臣蔵で一番割りを食ったのは誰あろう左兵衛義周さんである事は間違いありますまい(;´Д`)

2013-11-14 10:53:39
与太郎(ほぼ本当です。米軍情報。) @Yota_Low

TVで見たことあるのは、セッカチというかそういう性格の人と貴族独特の立ち振舞が水と油だったみたいな解説のされ方をしていたことがあります。 氏の言うような癇癪持ちだと、今で言うDQNのようによく判らない思い込みを抱くこともありそうですね @randy_TSK

2013-11-14 10:55:44
Randy Hickey @randy_TSK

@Yota_Low  浅野内匠頭の切腹の後、浅野家の江戸家老(二人いましたが)二人とも遺骸の受け取りにも来ず泉岳寺での埋葬にも来ない有様で、「馬鹿殿様にやられちまった・・・(;´Д`)」って思っていたかもしれませんね・・・

2013-11-14 10:57:56
Randy Hickey @randy_TSK

|3・)そういえば、浪士が泉岳寺へ引き退く時に歩いた大川端の佐賀河岸通りには、浪士に酒を振舞って休憩させた味噌屋さんの屋号のついたビルがそのまま残ってますww

2013-11-14 11:00:38
Randy Hickey @randy_TSK

|3・)そうそう、忠臣蔵トリビアとしては、内匠頭の辞世「風さそふ 花よりもなを 我はまた 春のなごりを いかにとやせむ」ってのも実は作り話らしいww 幕府目付として切腹の検視(副使)で田村右京大夫屋敷に来る多門伝八郎の創作って話らしいす。 片岡源五の涙の別れも多門の創作説ありw

2013-11-14 12:52:22
Randy Hickey @randy_TSK

|3・)赤穂浪士の討ち入りまでの約二年弱の軍資金、これは内匠頭の奥様「遥泉院」の化粧料690余両を頂いて使いました。7両位赤字が出て、赤字分は大石内蔵助が払ったらしい。この金銭出納帳が現存していて、箱根神社で保管されているらしい。

2013-11-14 12:56:59
Randy Hickey @randy_TSK

大名の子女が他家に嫁に行く場合、化粧料として持参金を持っていく場合が多かったそうです。因みに、大阪夏の陣で豊臣秀頼と死別した二代将軍の姫君であられた千姫様が二度目の輿入れで姫路の本多家(徳川四天王本多忠勝の家)に嫁いだ時の千姫の化粧料は何と破格の十万石!

2013-11-14 13:01:06
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