新選組~試衛館の青春 第一話「雪のひな祭り」
よろしいわけないじゃないか。 山口は思った。 腕には多少覚えがある。こんなところぐらい斬り抜けられる。 だが、山口は道場でしか他人と戦ったことがない。四歳年上の兄上が病弱ということもあって、兄弟喧嘩すら、殴り合い、取っ組み合いはしたことがなかった。 #試衛館の青春
2013-11-28 18:17:53いわば、実戦経験が全くないのだ。そこへもってきて、多勢に無勢だ。難なく手足を縛られて、同じ恰好の先輩の隣に再び転がされた。 山口は悔しかった。 #試衛館の青春
2013-11-28 18:19:21俺ってこの程度だったのか。 十歳で道場に入門してから、いやそれ以前、父上に竹刀の握り方を教えられた時から、こと剣に関しては、他人より劣っていると感じたことはなかった。今年十七歳になって、皆伝免許ももらった。道場では自分に勝てる者はいない。 #試衛館の青春
2013-11-28 18:20:46父上とは別に年若くして勘定所に出仕している秀才の兄上と違って、学問は全く性に合わない。だけど剣でなら誰にも負けない自信があった。 自分は剣で身を立てよう。 漠然とではあるがそう思うようになっていた。 それがこの体たらくだ。情けなかった。悔しかった。 #試衛館の青春
2013-11-28 18:22:49「お前、喧嘩したことないだろう」 隣の男が言った。 「えらく簡単にやられたもんな。で、こんなはずじゃない、悔しいって思ってる。顔に書いてあるぞ。その面擦れ、竹刀胼胝。道場ではかなりの腕なんだろう。でもな、喧嘩はまた別なんだ」 #試衛館の青春
2013-11-29 17:53:45男はまた優しい微笑みを山口に向けた。 山口は、男の笑顔の優しさが癪に障った。全くの子供扱いだ。馬鹿にされている。 自分だって手足を縛られて、文字通り手も足も出ないじゃないか。 そう思って、不機嫌に黙っていた。 #試衛館の青春
2013-11-29 17:55:21そんな山口の気持を見透かしたかのように、男がまた、口を開いた。 「自分だってやられてるじゃないかって思ってるだろう。ところがどっこい、見ろよ、これ」 男は両手を出して見せた。縛られていたはずの手だ。 #試衛館の青春
2013-11-29 17:57:02「面白そうだったから、ちょっと付合ってやってたまでだ。そろそろ帰ろうかと思うんだが、お前どうする」 男はまた、からかうように微笑み、山口の顔を覗き込んだ。 どうするもこうするも、こんな所に居たいわけないじゃないか。 山口はだまって男の顔を見返した。 #試衛館の青春
2013-11-29 17:59:05山口の答えを待たずに、男は立った。五人の武士が慌てて抜刀し、次々に男に襲いかかった。男は一人目の襲撃をかわすと、難なくその刀を奪い取った。そしてそれを峰に返すと、あっという間に五人全員を畳に這わせた。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:00:55男は、呆然と見ていた山口の手のいましめを解きながら、 「足は自分でやれ」 と言って例の如くまた微笑んだ。そして部屋を出て、階下へ降りて行った。 部屋に残された山口は、自分の足を縛っていた紐を解くと、男の後を追った。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:04:26山口が蕎麦屋の外に出ると、男の姿はもう、かなり遠くを歩いていた。 すごい…。 山口は心の中で呟いた。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:06:27剣の腕が立つというのとは少し違う。どう表現すればいいのか、上手い言葉が見つからないのだが、強い。そう、とにかく強いのだ。山口は男の後姿を憧れのこもった熱い眼差しで見つめた。悔しさや、子供扱いされた腹立たしさは、もう消えていた。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:07:27追いかけようかとも思ったが、やめた。 今追わなくても、あの人とはまた会える。 なぜか確信を持ってそう思えた。 夕闇せまる街の中、家路を辿る山口の肩に、空から白いものが落ちてきた。 春だと言うのに…、寒いはずだ。 山口は背を丸めて歩を速めた。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:09:36その背にも、まるで白い花びらが風に舞うように、休むことなく、はらはらと雪が降りかかった。 これは積もるな。その前に早く帰ろう。 山口はさらに歩を速めた。 遠く、暮れ六つの鐘が、薄闇の空に低く響いた。 #試衛館の青春
2013-11-29 18:10:59夕餉の後、自分の部屋に戻ってから、山口は昼間の出来事を思い返した。 大老暗殺の企て。黙っていてもいいものだろうか。 自分は部屋住みとはいえ御家人の家の息子だ。また、下級役人といえども、父上と兄上は勘定所に出仕している。こんな大事、黙っていていい訳はない。 #試衛館の青春
2013-11-30 17:58:34だけど、報告するとして、どう話す? 相手が何処の誰かもわからない。報告されても対処のしようがないだろう。 それにあの不甲斐ない自分の姿を、ほんの少しでも父上や兄上に知られるのは、死んでも嫌だった。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:00:13この頃憂国の士を気取る不満分子が、所かまわず無責任に大言壮語している。もちろん実行に移す気などない。あの武士たちもきっとその類だろう。 そうだ、そうに決まっている。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:01:36山口は、昼間の出来事をなかったものとすることにした。あの男に出会ったことを除いては。ただ、武士たちの「上巳の節供の登城時」という言葉が、多少気にはなっていた。 上巳の節供、即ち三月三日は明日だった。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:02:46翌朝、山口は雪の中、お城の桜田門近く、大勢の野次馬の中に居た。 井伊大老が襲われたと聞いた時、山口は、 しまった! と思った。 奴ら本当にやりやがった。 自分は事前に知っていたのに何の手立ても打たなかった。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:05:55俺のせいだ。 そこまで思いつめた。家を飛び出し、現場へと走った。 しかし今、野次馬の中にいる山口は、どこかホッと安心したところが見える。 それは、野次馬の中に昨日の五人組を見たからだ。五人組は山口に気付くと、ばつ悪そうにこそこそと逃げていった。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:09:12あいつらじゃなかったんだ。 大老暗殺という大事件を目の当たりにしながら、自分はなんて人間が小さいんだろうと思う。が、山口は身体中の力が抜けていくほどホッとしていた。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:11:10やっと、お堀端の桜の蕾の濃い桃色とそれに降りかかる雪の純白に目を向け、その調和の妙を味わうことが出来るようになっていた。 それは得も言われぬ美しさだった。その美しさに見とれながら、なぜか、山口は昨日の男のことを思った。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:12:34あの人も俺と同じように自分のせいだと思っただろうか。 いやそんなことはない。おそらく山口が自分のせいだと思ったのを知ったら、また例の子供扱いした微笑みを見せて「そんなわけないじゃないか」とか言うに決まっている。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:14:02そう思ったら、少し腹が立ってきた。でもそれ以上に、もう一度会いたいと思った。 #試衛館の青春
2013-11-30 18:15:33野次馬の数はだんだんと増えていった。しかし、不思議と静かだった。まるで昨夜から降り積もった雪が、人々のざわめきを吸取ってしまったかのように、しんと静まりかえっていた。 #試衛館の青春
2013-12-01 17:46:07