科学が寄り添える正しさとその正しさを信じることを、他の分野と比較して考えると
コウサキ家の中では(八百万の)神の存在というのは、現代科学的・現代法とはまた別に確固として存在する。普段は意識しないけど何かの拍子に意識する。一応、苗字に神って入ってるし、一説によれば少しその辺に関係のある家だったというのもあるかもしれない。
2013-12-30 14:45:35@kousakiscorpion なるほど。とはいえ強い相違点は残ります。最も大きな違いは、「物事の理由を自身より上の次元に委ねるか否か」です。神という上位存在に事象の理由を求める活動はすくなくとも現代でいうところの科学という言葉には含まれませんよね。
2013-12-30 16:24:07@syura1357 そうですね。言い換えれば、その辺りがなければ科学のようとも言えます。そして、僕は宗教を科学として見る場合、神を上位存在とは見ません。分からないことを説明するための道具。実際、神の存在が強かった時代には科学たりえたのでは?というレトロスペクティブな見方です。
2013-12-30 16:34:02@kousakiscorpion はい、ですから、やはり私は宗教の管轄下であった「物事の説明」という側面の多くが科学に置き換わった、と考えたいところです。「上位存在に頼らなくても良い部分を宗教が切り離した」とも言えるかと。
2013-12-30 16:38:38@syura1357 んです。だから上位存在はその圧倒的な力を失った。科学は神を解体したのです。では、神は不要か?僕としては「万人が『便利だ』と思う文化的共通概念」が「神」と思います。「上位の存在」は、今でもどこかにある。法は科学より強くそれに依存しているのではと感じるのです。
2013-12-30 16:52:07@kousakiscorpion そうですね、上位存在から世界の一部の説明権を奪った科学ですが、だからといってすべてが科学で説明できると思うのは、やはり違うのでしょうね。人文系と呼ばれる学問はまだ神の管轄にあるのでしょう。
2013-12-30 16:56:23@syura1357 更に言えば「科学が自然現象を説明する」「法は遵守すべき」という共通認識はどこから生まれるか、という部分。まぁこれこそ人文系の学問なんですが、ここに鍵があるのではないかと思います。科学や法をそれたらしめるような存在が、なにかあるのではないかと感じています。
2013-12-30 17:02:31国によっては倫理の形や「法の矛先」というものが大きく異なるっす。倫理観は時代によっても異なるっすからね。現代の倫理観がはたして正しいのかというのも、我々は常に考えておくといいっす。
2013-12-30 17:01:22