自己認識と自己配慮をめぐる問題について-フーコーのデカルト見解、キリスト教VSグノーシス主義etc-
- Abraxas_Aeon
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[1)の続き]カントの答えもまた肯定的ではあるが、制限的なものでもある。あるがままの存在における主体が認識出来るようにしてくれるその当のものが、主体が自分自身を認識することが出来ないようにもする。
2010-10-21 17:43:342)自己配慮と自己認識の関係に関係する。自己認識は、認識一般という立法のもとで、自己配慮の代わりをつとめ、そうして主体の存在そのものを問題しなければならないのかという問題を斥けることができるのだろうか。それとも主体の存在を問題視するような徳や経験を自己認識から期待すべきなのか。
2010-10-21 17:46:39未刊草稿とか興味深いことばっかり載ってるんですけど・・・。とりあえずハイデッガーについて述べているところとかみたりすると、フーコーがハイデガーについてとった「何トンものノート」ってのがマジでヤバそう。刊行とかはしてないんだろうけど・・・。
2010-10-21 18:03:13@Abraxas_Aeon 性の歴史シリーズの第四巻の原稿はすでに出版のもとにあるが、フーコーの遺言によって表に出ることはないという噂話を聞いたことがありますね~。読んでみたいものです。
2010-10-21 18:12:29@clothsack 性の歴史四巻『肉の告白』ですね。あれは原稿が「ほぼ完成形」ということでした。1982年時にポーランドに出かける際、「事故の場合に」と書いた遺書があり、そこには「不具よりは死を」「死後出版は認めず」と書いてあるそうです。そこをなんとかねじ曲げて欲しいす…。
2010-10-21 18:21:20ハイデッガーにとって、対象の認識が存在忘却を確固たるものとしたのは、西欧的テクネーに始まる。この問いを逆転させて、次のように問おう。一体どのような諸テクネーを出発点として、西欧的主体が形成され、それらを特徴付ける真理と誤謬のゲーム、自由と強制のゲームが開かれたのかと。(フーコー)
2010-10-21 18:25:21@Abraxas_Aeon 「そこをなんとかねじ曲げて欲しいす…」私もそう思う反面、故人の遺志を尊重す べきだとも思うのです。う~ん、ディレンマだ。
2010-10-21 18:29:37@clothsack 全くですねw。しかしそれにしても刊行可の対象なのにまだ未刊の講義録が山のようにありますがw。多分もうすぐ、『真理への勇気』が邦訳でると思いますよ。フーコー最終講義。原書は既に出ていて、しかもフーコー訳者の訳業への精力っぷりは半端じゃないのでw。
2010-10-21 18:40:50@Abraxas_Aeon 日本であるから、翻訳に情熱を傾けることができるのかもしれませんね。欧米圏では翻訳をしてもほとんで学問的な評価にはならないのに比べ、日本は明治初期の学問がほとんど翻訳学だったといってもいいくらいだったことからの伝統でしょうか翻訳が学問的に評価されますから
2010-10-21 18:56:12ヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー、ニーチェ、『危機書』のフッサール、ハイデッガーらを取ってみれば、霊性は失墜させられたり、貶められたり、批判的に考察されたり、或いはヘーゲルの場合は反対に称揚されたりと様々である。
2010-10-30 19:20:36しかし、何れにしても認識が、認識の行為が、霊性の様々な要請とどれほど結びついたままであったかということが解る。彼らの何れの哲学においても、ある一定の霊性の構造が、認識、認識の行為、その条件と効果を、主体の存在そのものの変容と結びつけていた。
2010-10-30 19:20:47ヘーゲルの『精神現象学』とは結局それ以外の意味を持つものではない。19世紀の哲学史は、その全体を一種の圧力として考えることができる。
2010-10-30 19:20:56デカルト哲学以来、いずれにしても17世紀の哲学以来、ひとが霊性の構造から引き離そうとしていた哲学を、そうした圧力のもとに、この同じ構造の中で、改めて考えようとするようになった。
2010-10-30 19:21:13「古典主義的」なタイプの哲学、デカルトやライプニッツなど、この伝統に連なる者全てが、19世紀の哲学に対して持つ敵意はここに起因している。19世紀の哲学は実際、明言はしないが暗黙のうちに霊性という古い問題を提起している。自己への配慮へ再び配慮するようになっている。
2010-10-30 19:21:23マルクス主義と精神分析という二つの知の形式でも、霊性に特徴的な、「主体の存在の何たるか」という問題と、そこから出てくる、「真理に到達することで主体において変化しうるものは何か」という問題が、その出発点と到達点に見出される。
2010-10-30 19:21:41この二つの知の形式が霊性の形式だというのではなく、そこに見出される問題、問いかけ、要請といったものが、千年、二千年に渡る歴史的な観点から見た場合、〈自己への配慮〉即ち真理への到達の条件としての霊性という、何よりも古く、根本的な問題であるように思われるということ。
2010-10-30 19:21:53ただし実際にはこの二つ後の形式の何れもが、こうした観点を明晰かつ集中的に、とりたてて考察するということはしてきていない。これらの知の形式に固有の霊性の様々な条件は、いくつかの社会的形式の内部において隠蔽しようとされてきた。
2010-10-30 19:22:02階級の措定、党の効果、グループへの帰属、学派への帰属、通過儀礼、分析家の要請といった考え方はまさに、真理への到達のために必要な主体の構成条件の問題を連想させるが、この問題は社会、組織という点から考えられており、霊性とその要請の存在という歴史的な切り口で考えられていない。
2010-10-30 19:22:12そしてこの「真理と主体」という問題を(グループ、学派、党、階級などへの)帰属の問題に移し替え切り下げるには、真理と主体の間の関係の問題の忘却という犠牲を払わなくてはならなかった。
2010-10-30 19:22:21この真理-主体関係について理論的には一度も考えられなかったということが、精神分析に関しては実証主義、心理主義を招いた。
2010-10-30 19:22:37フーコーにおいて、ラカンはフロイト以降、唯一人、精神分析の問題を主体と真理の間の関係の問題に改めて集約しようとした人だったと捉えられている。
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