自己認識と自己配慮をめぐる問題について-フーコーのデカルト見解、キリスト教VSグノーシス主義etc-
- Abraxas_Aeon
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1:人は無知であり、自分が無知であることを知らない。故に自己を配慮しなければならない。人は自分が無知であること、無知であることに無知であることを発見する。自己への配慮という命法を生じさせるのは無知の発見、無知の無知の発見であるということ。
2010-10-19 22:15:452:自己への配慮の肯定から実際に自己を気遣おうと企てた瞬間に、自己への配慮は「自分自身を知る」という点に集約される。自己を知れという命法が自己への配慮に覆い被さる。自己の認識は、魂が叡知界の鏡の中で自分を見ることによって自己を認知し、自分の存在を把握するという形をとる。
2010-10-19 22:16:163:自己への配慮と自己の認識の接点にあるのが「想起」。魂は、自分が見たものを思い出すことによって、自分の存在を発見する。この「想起」においては、自己の認識と真実を知ること、自己への配慮と存在への回帰が、魂の一つの運動の中で合流し、まとめられている。
2010-10-19 22:16:48【2】(再掲)自己認識と自己への配慮をめぐるキリスト教的(修徳的・修道院的)モデル(3~4世紀あたりに成立。まずはこれを再チェック→ http://ht.ly/2VJqH )
2010-10-19 22:17:281.聖書の真理と自己を知ることと自己への配慮の関係が循環している。天国で救われようと思うなら、聖書に書かれていたり啓示によって現れたりする真理を受け入れなければならないが、この真理を知るためには、心を浄化するような知という形で自分自身を気遣っておかなければならない。
2010-10-19 22:18:34反対に、こうした自分自身による自分自身の浄化的な知が可能になるためには、聖書や啓示の真理と既に根源的な関係を持っていることが条件になっている。
2010-10-19 22:19:022.自己を知るための「釈義」の方法。内的な幻想を吹き払う、魂と心の内部に作られる誘惑を認める、そして人が陥りかねない誘惑を失敗させるために、魂の中に広がる密かなプロセスや動きを解読するための方法が必要になる。これによって、こうしたプロセスや動きの起源や目的や形式を把握する。
2010-10-19 22:21:033.1と2は根本的に「自己を放棄させる」ということを目的としている。プラトン主義モデルのように、自己の認識が、自分自身に帰り、「想起」の行為によって、観照することのできる真理や自分自身の存在を再発見するといった機能をそれほど持たない。
2010-10-19 22:21:49【3】プラトン主義モデル[=想起モデル]VSキリスト教的モデル[=釈義モデル]という対立構造とグノーシス主義の位置
2010-10-19 22:22:16プラトン主義の想起モデルは古代を通じて存続し、2~3世紀において活力を取り戻し、キリスト教のフロンティア地帯(キリスト教の内部と外部)において、グノーシス主義の運動がこれを再び取り上げた。このグノーシス主義を通してプラトン主義モデルはキリスト教モデルと互いに対立することになった。
2010-10-19 22:23:54グノーシス主義には、大雑把に想起モデルと呼びうる図式、即ち「存在の認識と自己の認知は同じものだ」という考え方がある。自己へ回帰することと真実についての記憶を取り戻すことは一つのことであり、この点においてグノーシス主義の運動には多かれ少なかれプラトン主義的だということ。
2010-10-19 22:25:17キリスト教のフロンティアで発展したこのグノーシス主義の運動は、キリスト教の特権的な対話者となり、キリスト教はある程度までグノーシス主義と闘おうとすると同時に、それを自分の圏内に、(「悪」の概念としても)取り込もうとした。
2010-10-19 22:26:04キリスト教の教会は、グノーシス的な想起モデルに対して、釈義モデルで対抗した。「魂の中に生まれる内的運動の本性と起源を探りだす」という釈義モデルの機能或いは効果は、グノーシス運動との間に大きな切断と分離を確保することにあった。
2010-10-19 22:26:53実はこの後に「自己への配慮」のみに特権的地位を与えているという第三のモデル「ヘレニズム的モデル」が控えていたりしますが(汗。
2010-10-19 22:32:14ある意味で奇異に感じるのは、近代主体を批判してきたフーコーが、近代性の創始者の一人であるカントにことの他重要な位置を与えていることである。ここがまた、逆に、ラカン派がフーコーを軽く扱う根拠ともなっている。(山本哲士)
2010-10-21 02:33:43フーコーはヘレニズム・ローマの哲学を論ずる際に、歴史家として仕事をしているのではない。彼は系譜学をしている。「系譜学とはなんぞ?」「系譜学とは現在の問題から出発して分析を遂行するということ」
2010-10-21 16:40:22三つの問題が、ある意味では西欧思想全体を貫いている。 1)真理への到達 2)自己自身に対して配慮を向けることによって、主体が自分自身を問題視する(=賭ける)こと 3)自己認識
2010-10-21 17:05:461)ひとはそこに到達する主体の存在そのものを問題視することなしに、真理に到達できるのか。主体の存在そのものに関わるような犠牲や修練や変容や浄化という代償を払うことなしに、真理に到達できるのか。主体はそのあるがままの存在において、真理に到達できるのか。デカルトはYesと答える。
2010-10-21 17:15:30