ぼくは哲学は門外漢だし、厳密に考えきることができない(とりあえずその必要もない)ので、もっぱら文学(個々の作品)と生活(生きる実感)のなかで、「自分」「他者」「他人」を考えているのですが。
2014-01-03 10:06:10たとえばJ・G・バラードが言う「内宇宙」は、伝統的なSFに馴れた観点からは「自分」の意識内世界と理解されがちだが、ぼくはむしろ「自分」「世界」が未分化の段階への遡行、もしくは分化しえない領域の開示だと思っている。
2014-01-03 10:14:29@ShindyMonkey 精神分析の一流派では、乳児と母親のおっぱいの関係から始まると考えていますね。
2014-01-03 10:21:14@ShindyMonkey 空腹なときに母乳が出る「良いおっぱい」と、空腹なのに母乳が出てこない「悪いおっぱい」とに分裂していて、
2014-01-03 10:22:32@ShindyMonkey それがもう少し成長すると、どちらも同じ1人の母親に属するものという”認識”が生まれてくる
2014-01-03 10:24:03ぼくの感じだと、そのおっぱいが「自分」と「世界」の界面ですね。 RT @aenigma_aka_bck 精神分析の一流派では、乳児と母親のおっぱいの関係から始まると考えていますね。
2014-01-03 10:30:23あらかじめ「自分」「世界」があるのではなく、まず界面があらわれ、そこから相即的に「自分」「世界」が分化していく。 @aenigma_aka_bck
2014-01-03 10:30:40@ShindyMonkey 現象学は、おっしゃるように世界と主体(意識)が分化する以前(時間的にではなく論理的・存在論的に=発生論的に)の次元を解明しようとする試みなのだと思います。
2014-01-03 10:30:59@ShindyMonkey そうですね。後から反省的に言えば「界面」ということになるのでしょうね。ただ、界面を界面「として」捉えることができるのは、既に文化が成立してからの段階になるのだと思います。
2014-01-03 10:32:27ありがとうございます。しっかり考えようとすると難しいですね。 RT @aenigma_aka_bck 象学は、おっしゃるように世界と主体(意識)が分化する以前(時間的にではなく論理的・存在論的に=発生論的に)の次元を解明しようとする試みなのだと思います。
2014-01-03 10:32:54うーむ。あらゆる思考は事後的に出発するしかないですね。 RT @aenigma_aka_bck そうですね。後から反省的に言えば「界面」ということになるのでしょうね。ただ、界面を界面「として」捉えることができるのは、既に文化が成立してからの段階になるのだと思います。
2014-01-03 10:36:23@ShindyMonkey そうなりそうですね。後から遡及的に解明していくという形にならざるを得ないでしょうか。
2014-01-03 10:37:32おお、これは充実した読みですね。新しい地理学を援用しているところ、たいへん勉強になります。 RT @okiraku_k 牧さんの「内宇宙」の解釈、全面的に賛成です。私も以前自分のブログで同様のことを書きました。// http://t.co/JhhlRQJ8Ay …
2014-01-03 10:47:53そう思います。いまだに「内宇宙」を誤解しているひとが多い気がします。バラードを読めばわかるのに。 RT @okiraku_k //たぶん「内宇宙」というネーミングが良くなかったのでしょうね。バラード自身ははっきり「外的世界と内的世界が出会い融合する場」と言っているわけですから。
2014-01-03 10:58:13ですです。バラードに弱点があるとすれば、むしろ「わかりやすく書きすぎる」点でしょう。 RT @okiraku_k J.G.バラード面白いよ。書きたいことがはっきりしているから理解しやすいし、すごい景観が沢山出てくるし、ダメ男や変な奴もいっぱいだし…(笑)
2014-01-03 11:09:36ぼく自身は、バラードの後期作品はそれほど高くは評価していません。観点は鋭く、状況への批評性は優れていると思いますが、その図式・骨組みが明らかに示されている反面、文学としての充実が(以前のバラード作品と比べ)薄いと思います。 @okiraku_k
2014-01-03 12:01:08ああ、そう考えたことはなかったですが、面白い切り口ですね。 RT @okiraku_k 牧さんの言葉に倣えば、レムは「他者」、ストルガツキーは「他人」との関係を軸に読むと括りやすい気がする。
2014-01-03 12:03:19ぼくがレムに惹かれるひとつの理由は、「他人」を“普通”(=日常レベル)の問題と捉えるのではなく、「他者」を経由して捉え“普遍”(=一般レベル)の問題にしているところにある。端的なのは『ソラリス』の主人公の前にあらわれるハリー。
2014-01-03 12:10:28現象学を知って良かったことは概ねふたつかな。ひとつは「その時そう感じた、という感覚だけは疑い得ない」という本質看取。そしてもうひとつは「それ以外の事は何も確かではない、と疑ってかかれ」という方法的懐疑。事象と印象をセットで主張する意見は、まず事実かどうか保留して傾聴する。
2014-01-15 19:11:20ツイッターなどでも、典拠を示さぬ書き込みや、伝聞による判断をあたかも真実のように書くものは、だいたい判断保留しながら読む。するとどこまでがその人の印象で、どこからが伝聞情報かも何となく分かる。印象による批判ばかりを繰り返す人は、自分で自分に酔っていることが少なくない。
2014-01-15 19:15:12でもその時その人が傷ついたり嬉しく感じたりした、感情だけは本物。誰も否定は出来ない。そう考えると、相手の立場を尊重したいという気にもなってくる。(その人の、事実に反する主張への対処は、これとはまた別の話。)こうしてみると、現象学が自分のコミュニケーションの基底にある気がしてくる。
2014-01-15 19:18:36