反抗的主体をめぐる哲学(その他諸々)
- Abraxas_Aeon
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@suppatenkoh これです。 つ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8623/1250777944/l50
2010-02-23 23:27:15@Abraxas_Aeon 似たようなことを考えている人っているもんですねえ・・・。読んでてまずそのことに驚きますよ。そして分かりやすいです。私には少なくとも。
2010-02-23 23:33:06@suppatenkoh すみません、パソコンの機動性が悪くて…。その感覚は最初にsuppatenkohさんの論文を拝読させていただいたときに私が抱いたのと同じかもしれませんね(反抗的主体についてとか)。
2010-02-23 23:45:26@Abraxas_Aeon あの最後に書き走った反抗的主体のところがまさか理解されるとはと驚いていたのですが、これを読んでなるほどと腑に落ちる感じがしました。納得。
2010-02-23 23:47:18@suppatenkoh 解りやすいとのこと、ありがとうございますw。本文はいきなりあの文字を羅列していたりするので、出口の訳に則りつつその訳をさらに砕いて、文字の意味を予め冒頭に書いておくといいのではないか、と考えてああしたわけですが。本文に則りすぎている所もありますけど(汗。
2010-02-23 23:52:59@suppatenkoh 反抗的主体については、方法論はいろいろあれど、バタイユやっていればまさしく共鳴するところですよw。バタイユのヘーゲル論もそういうところが凄い明確ですw。
2010-02-23 23:55:58@Abraxas_Aeon いい判断だったと思います。最初にam,ah...という言葉で何を指すか書いていてくださったので、状況をイメージしながら読むことができました。具体例を交えつつかくとさらに分かりやすくなるかもと思ったり、思わなかったり。まぁ、任せます!待ってますね。
2010-02-23 23:56:11@Abraxas_Aeon バタイユまともに読んでないって話は前にしましたよね。この反抗的主体という発想はキルケゴールの影響が強い(と思う)んです。『死に至る病』は頑張って読んだので…。
2010-02-24 00:00:36@suppatenkoh なるほど。いや、私は逆にキルケゴールにはまともに触れたことがありませんが、どこだったっけな、『死に至る病』についての説明とどこかしらかぶっているんじゃないかとバタイユを読んでいて思ったことがあります。バタイユの場合は、後はサドですね。こっちもまともにはw
2010-02-24 00:06:12@suppatenkoh ちなみにいささか文学的ですが、「反抗的主体」といえば、つっけんどんに自分の本に『反抗的人間』と題して「反抗」をテーマにしたカミュも外せないかも。バタイユ自身も『非-知と反抗』という講義を開いているくらいなので。
2010-02-24 00:09:29@Abraxas_Aeon 木村敏が『死に至る病』について分裂病的だと言ってましたね。木村敏の整理によれば、分裂質のひとは未来や他者から憧憬や恐怖を強く受けるという…。
2010-02-24 00:09:48バタイユからはなぜヘーゲルの絶対知に到達した瞬間からしてそれが〈非‐知〉であるといえるのか。絶対知は前述の弁証法でもって行き着く果てである。それは認識できるものとしての知の有機空間の循環の完成であるのだが、それはちょうど「認識できないもの」を「他者」としてこしらえる形となる。
2009-12-12 20:48:17弁証法に終焉はない。「既知」の空間を「A」とするなら、「既知外」は「非A」である。Aと非Aの結合=「止揚」の際に、主体が〈非‐知〉、客体が〈未知のもの〉ということになって主体客体が合一する。これがバタイユのエクスタシス=恍惚=神人融合感(テオパシー)である。
2009-12-12 21:53:09主体が〈非‐知〉になるとはどんな状態か。分かりやすくいえばそれは「なんだこれは!?」である(^^;)。それは戦慄ということもあり感動ということもある。つまるところは「驚異的なもの」の「新発見」=「新たに事物を生成する」=「対象化」に伴う感性的体験ということにでもなろうか。
2009-12-12 22:53:26禅宗と〈非‐知〉 鈴木大拙の引用でもってバタイユは〈非‐知〉がどのようなものであるかを語ろうとしている。だがバタイユ自身が言っているように、これははっきり言って俗に言う「イミフ」としかいいようがない説明だw。
2009-12-02 00:42:20鈴木大拙の「悟り」についての説明は〈非‐知〉の例といえる。「香厳は師の潙山からいかなる教示も拒まれて悲嘆に暮れていた。ある日、彼は雑草をとり庭を掃いていたときに小石を投げたが、その小石は竹に当たった。するとその音が思いがけなくも彼の心を悟りの状態へ高めた」(『好運への意志』より)
2009-12-25 23:17:49これはまったくわけが分からない。バタイユ自身も「理解しうるいかなる方法によっても悟りに到達することはできない。悟りは、何らかの予期しえぬ異常が引き起こす突然の混乱、急激な開けである」と語っている通り、〈非‐知〉とはこのようなものだ、と何とか語ろうとしているわけだ。
2009-12-25 23:24:20「なんという驚異に充ちた、新しい、ただし畏怖すべくもまた反語的な状態のうちに、私は、自分が固有の認識をもって、〈現存在〉の総体に立ち向かっているのを感知したことだろう!」
2009-12-30 21:25:06「私は、わが身のうちに、最も古い動物性が、有史以前の時代が、全過去が、詩をつくり、愛し、憎み、様々な結論を引き出し続けているのを発見した。」
2009-12-30 22:00:42「私は突如としてこの夢から醒めたのだが、それはただ、私に、自分が夢を見ていることを、領域を、避けるためには、夢見続けねばならぬことを知らせるためでしかなかったのだ」
2009-12-30 22:01:47私は以下のフーコーの主張が特に気に入っている。「私を駆り立てた動機はというと、(……)ごく単純であった。(……)それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の好奇心である。」
2009-12-30 23:14:27「つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。」
2009-12-30 23:15:24「もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能な限り容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか?」
2009-12-30 23:15:51