- sukemori_t
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妙満寺は元々は六条坊門室町(烏丸五条)にあったものを、秀吉の時代に寺町二条に移され、その後昭和になり周囲の環境悪化のために「昭和の大遷堂」により現在の岩倉に移ったそうです。
2014-01-19 17:38:56妙満寺を創建した日什大正師の生涯を描いた絵が本堂への廊下に飾ってあったのですが、この「将軍に強訴國諫」の「将軍」って誰?と思ったら、よしみっちゃんこと、義詮ちゃんの子にして籤引さんのパパ、足利義満殿でした(・∀・) http://t.co/zjcQjPKafD
2014-01-19 17:37:22妙満寺山門。 本堂、仏舎利大塔。 http://t.co/EEy2KfvEh4 http://t.co/3fSflFhaNw
2014-01-19 19:25:33妙満寺境内にある「五条大橋橋脚石」 http://t.co/SKeiu3HRL0 http://t.co/IM00RMdfMd
2014-01-19 19:29:24おなじく、境内に移設された「中川の井」遺構。 駒札によると足利義政同朋衆・能阿弥の定めた「京七名水」の一つだったそうです。 http://t.co/2wFDPldKBA http://t.co/wOZVH9LejN http://t.co/21HfRD7bZA
2014-01-19 19:32:22妙満寺といえば「雪の庭」。 俳諧の祖といわれる松永貞徳の造営です。 清水にある成就院の「月の庭」、北野にあった(一説に祇園/現存せず)とされる成就院の「花の庭」、とともに、成就院「雪月花の三名園」と称されていました。 http://t.co/oUOZVVHpkD
2014-01-19 17:58:22昭和43年、岩倉へ移ったさい、成就院より本坊の庭に移築されました。 http://t.co/71rXDsw0qQ http://t.co/uKDgb6dopT http://t.co/VJ4l9nxTm4
2014-01-19 17:59:48妙満寺には安珍・清姫伝説の鐘が伝わります。 正平14年(1359)、道成寺では安珍・清姫の伝説以来失われていた鐘を再建し鐘供養を行ったところ、その席に1人の白拍子が現れ呪力でその鐘を落下させると蛇に姿を変え日高川へと消えました。→
2014-01-19 17:41:37その後近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めましたが、後にこの話を聞いた「秀吉根来攻め」の大将仙石権兵衛秀久が掘り起こし、京に運び妙満寺に納めました。時の貫主の供養で怨念を説かれ鳴る音美しい霊鐘となりました。 →
2014-01-19 17:43:31ということで、妙満寺では毎年春に鐘供養を営み、道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈願されるそうです。 (故中村勘九郎さんの京鹿子娘道成寺のパネルが展示してありました)
2014-01-19 17:45:43他には、上杉謙信自筆書状(北条丹後守高広あて)や、豊臣秀吉自筆書状(天正15年5月29日付/肥後佐敷からおねあて)、加藤清正肖像画(土佐光則筆)などがありました。
2014-01-19 17:51:02秀吉書状は朝鮮出兵構想を表した最も早い時期の書状の一つで「今度の遠征で年を取り白髪が増え抜くことも出来ず人に会うのは恥ずかしい。お前ばかりは構わんだろう」というような内容
2014-01-19 17:51:10宝物殿には安珍清姫の鐘ゆかりのお守りも。 あれ?寺紋は橘だとおもったのですが…。 http://t.co/Jf2XmU3MTj
2014-01-19 17:52:34開祖 日什上人は元は天台宗の僧で、比叡山三千の学頭にまでなった方ですが、67歳の時に日蓮聖人の教えに触れ改宗され日蓮聖人門下に入れらました。 比叡を正面に臨むこの地に遷堂されたのも何かのご縁かもしれませんね。 http://t.co/hbE1lwmjeN
2014-01-19 18:11:24(付録) ここ、なんの部屋だと思います?妙満寺の宝物殿への通路の途中にあったのですが…。 http://t.co/XDyy8D49Xq
2014-01-19 19:34:56