お菓子っ子さんの「いじめ撲滅と社会構造」

いじめを容認しないのは当然だと思うのだけれど,それと社会の変化についてこういう論考はなかなか鋭い。
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お菓子っ子 @sweets_street

私的制裁って「おかみの手には任せておけないから、自分でケリを付ける」ってことなんですよね。だから、公的制裁の執行者という建前で力を持っている権力者は威信にかけて私的制裁を禁じるわけです。私的制裁の縮小の歴史は権力者の公的制裁の拡大の歴史でもありました(続

2014-01-22 10:00:25
お菓子っ子 @sweets_street

受)いじめや体罰が許される範囲が狭くなっているのは、「自分の共同体のことは自分達で裁く」という私的制裁への信頼度が落ちている現れでしょう。公的制裁の厳格化を求める声が大きくなっているのと表裏一体。「私的制裁が担当していた見せしめも公的制裁に受け持って欲しい」という気持ちの現れ(続

2014-01-22 10:11:36
お菓子っ子 @sweets_street

受)いじめや体罰が多い世の中は共同体内部では窮屈ですが、おかみの目が隅々まで行き届かないために勝手なことができるという意味では気楽な世の中でもあります。いじめや体罰が許されない世の中は共同体内部の風通しは良いですが、おかみの制約を受けることが多い世の中でもあるでしょう(続

2014-01-22 10:17:08
お菓子っ子 @sweets_street

受)逸脱者の制裁を誰に任せるかは「誰に実質的な権力を与えるか」という問題でもあるんですよね。制裁の元締めがその場における権力者になるから。体罰教師やいじめっ子のような私的制裁を担当するローカル権力者の権力が公的制裁を担当する国家によって否定されつつあるということなのでしょう(続

2014-01-22 10:21:46
お菓子っ子 @sweets_street

受)体罰やイジメを容認しないメディアの論者には国家の統制を嫌う自由主義者的な人が多く、容認する論者には国家の統制を好む人が多いです。しかし、前者が頑張れば頑張るほどローカル権力者の権力は否定されて国家に回収されていく。後者が頑張ればその動きの阻害になる。皮肉なことですね(続

2014-01-22 10:25:47
お菓子っ子 @sweets_street

受)体罰やイジメの否定は究極的には共同体のローカル権力者の消滅につながり、共同体は制裁権を持つ国家の介入を強く受けることになります。「おかみは信用ならねえ」といってローカル権力者の私的制裁を容認していた世の中が「おかみの方がローカル権力者よりマシ」にシフトしているのでしょうね(続

2014-01-22 10:31:43
お菓子っ子 @sweets_street

受)たとえば、ここ二十年で国家権力による大学自治への介入はだいぶ進みました。「国家権力は大学に介入するな。大学のことは学生が決める」と主張して大学自治を担っていた政治的な学生団体への視線も「横暴だけど国家権力よりはマシ」から、「国家権力は奴らの横暴を排除しろ」に変化しています(続

2014-01-22 10:37:49
お菓子っ子 @sweets_street

受)国家権力による管理強化及び自治否定はずっと以前からありましたが、昔は強引なことをすると一般社会からも強い批判を受けました。今は多少強引なことをしても批判も弱いです。国家による管理強化とローカル権力者による自治の否定を世論が容認するようになったことがここにも現れています(続

2014-01-22 10:49:48
お菓子っ子 @sweets_street

受)ここ二十年はあらゆる意味で転換期ですが、社会の多数派が「おかみは信用ならん。共同体のことは内部で決める」から「共同体は信用ならん。おかみが目を光らせて共同体の暴走を防ぐべし」に転換したことは特に大きいのではないかと感じていますよ。なぜ起きたのかはまた別の話になるでしょうが(終

2014-01-22 10:55:21