建安二十年の益陽での対峙は、澬水の南北で行われた。北に関羽、南に魯粛である。この対峙の仕方を考えると、関羽は北から来たのであり、湘水は通ってない。武陵を経て南下したのだ。思うに、当初から、湘水が長江に合流する巴丘は呉に押さえられており、湘水を動脈とするのはリスクがあった。
2014-03-05 19:39:19建安二十年の戦役、及びその前後の形勢を考えれば、劉備が荊州南部の物資を集めるのには、武陵を経て公安に至る道を主として用いただろう。郡が税を集め、その内の中央に納める分を公安に送るのであれば、しっかり輸送路を整備すれば陸路でも問題ないだろう。また、巴丘を回避するルートの水運は使える
2014-03-05 19:45:30建安二十年の戦役は、零陵や長沙は陥落し、劉備は漢中を魏に奪われる形勢であり、劉備にとって著しく不利な状態だった。にもかかわらず、呉は譲歩し、零陵を返すと共に、退いて湘水の線を国境とした。こういう状況であれば、零陵の地域を除く湘水の利用権を、呉が占有していても不思議ではない
2014-03-05 19:49:11劉備は、建安二十年の戦役の後、零陵からの物流を陸路のみに依存することになった。これは平時であれば問題はないだろう。しかし、于禁を江陵に移送した時は、平時ではない。恐らく、通常の税以外に郡が備蓄している米の供出が求められたはずだ。そして、その大量の米を迅速に輸送するには、水運が必要
2014-03-05 19:52:48関羽に大量の米を求められた零陵は、湘水を使って江陵に運ぶことを考えた。そこに待っていたのが湘関である。通常は殆ど使われることはなかっただろうが、ここでは違う。蜀の窮地に対し、恐らくだが、異常な率の関税を要求した。当然関羽はそれを突っぱね、江陵への輸送を敢行させようとしたのだろう
2014-03-05 19:55:45湘関での争いは、関羽からすれば、同盟国の窮地につけ込み、自国の米を奪おうとする相手の要求など承服しかねるし、呉からすれば、建安二十年の講和以降の正当な権利と考える。呉が零陵を返し、湘水を得るということは、或いはこうした事態に侵攻の正当性を得るための布石だったのかもしれない。
2014-03-05 19:59:13魯粛、呂蒙、陸遜のラインで行われた湘関での収奪は、関羽を陥れるための罠であり、数年掛かりで行われたことになる。関羽が北に出れば、零陵の生産力は必要とされるところであり、そうなれば湘水の関が生きてくる。関羽を討つ大義名分を容易に得ることができる
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