暴力=人に不可逆的な影響を及ぼすもの
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4月2日(水)深夜
戸田山和久『論文の教室』の後書きにデイヴィッド・フィンチャーの映画『ファイト・クラブ』のワンシーンを引いて、教育は本質的な暴力であり余計なお世話であることが述べられている。このくだりすごく好きである。と同時に、自分は決して教育者として貫徹できないことを悟らせてくれる個所でもある。
2014-04-01 23:58:56何かしら実のあるコミュニケーションは基本的に暴力だと思いますけどね.不可逆な変化を伴うという意味で.ただ教育という場面は,そのような暴力=不可逆な変化を起こすことこそがまさに求められているという点で,暴力性が際立っている.
2014-04-02 23:59:39@Zahlangabeheft 通常暴力は倫理的非難の対象になるものだと思うので、その規定だとおおざっぱすぎませんか。比喩として用いているのなら理解できますけど。
2014-04-03 00:15:14さらに続きを言うと,不可逆な変化には新たな活動を産み出す力になるものと,むしろ活動を減退させるものがあって,後者が「単なる暴力」ということになる.問題は自分のやっていることの結果がどちらに転ぶか必ずしも前もって明らかではないという点にあり,→
2014-04-03 00:16:14→それゆえ教育やコミュニケーションにおいて生産的であろうとすれば常に,「単なる暴力」に陥るリスクが伴うことになる.
2014-04-03 00:17:53また,逆に「単なる暴力」に陥っているのにも関わらず,これは教育だとか,自分は生産的な議論をしようとしているだけだなどと思い込んで,なかなか自分の失敗に気づくことができない,というのも同じ理由によるわけだ.
2014-04-03 00:21:50@r_saijo 不可逆な変化には生産的なものと非生産的なものがあり,後者のタイプの変化をもたらす「暴力」が倫理的非難の対象になるのだと考えます.生産的な「暴力」と非生産的な「暴力」の間の違いは原理的には予め知ることができないので,両者を同じ名前で呼ぶことは有益だと思います.
2014-04-03 00:32:41@r_saijo いや「不可逆な変化を起こすもの」は長いでしょう.それに,不可逆な変化が生産的になるか否かは,原理的にはやってみないと分からないことであり,それゆえ不可逆な変化には常に「暴力」のリスクが伴う,そのことを強調するために「暴力」と呼ぶことには意味がある.
2014-04-03 00:44:40@Zahlangabeheft んー、私はむしろ暴力ということばは価値中立的ではないので、不要な混乱を招く気がします。子どもの背がのびることも、子どもを足蹴にして内臓破裂の状態にすることも同じく暴力と呼ぶことに意味があるんでしょうか。
2014-04-03 00:50:30@r_saijo 子供の背は勝手に伸びるものであり,われわれが不可逆な変化を起こしてはいないのでいかなる意味でも「暴力」ではありません.そういう誤解を招くのも,「不可逆な変化をもたらすもの」という言い方の欠点です.(続く)
2014-04-03 00:55:20@Zahlangabeheft ああ、なるほど、そういうことなら趣旨は分かりました。どうも申し訳ないです。
2014-04-03 00:57:42@Zahlangabeheft でもお話の途中でさえぎってしまったのはよくないですね。すみません。補足があればお願いできますか?
2014-04-03 01:08:27@r_saijo いや遮っていただいてむしろほっとしました.「子どもを足蹴にして内臓破裂の状態にする」と「論文の欠点を強い調子で非難する」を同じ「暴力」と呼ぶことにも違和感はあるが,後者を「暴力ではない」とは言い切れない,と反論しようとして,インパクトを欠くなあと思ってました.
2014-04-03 01:16:35@Zahlangabeheft 日常的にも身体的暴力と心理的暴力で区別しますし、程度も様々ですから、論文を非難する事例が暴力だというのはよく分かります。むしろ、相手に対する賞賛や配慮であっても、まずい結果を引き起こしかねない、というところがお話のポイントかと思いました。
2014-04-03 01:27:57