スイスの血の輸出とハプスブルグ

スイスの歴史を彩る鮮血について
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usa @unak

スイスという国のイメージは? と問われると「血の輸出」という言葉が真っ先に思い浮かぶんだけど、世の中には「平和な国」というイメージを抱く人がいるそうでそのギャップに驚く。

2014-05-30 19:36:00
usa @unak

どうも「平和の国」のイメージは「ハイジ」から来ているようだと言われてまた驚いたりする。ハイジのうちは二代にわたる傭兵家業で、おんじが人付き合いできないのは戦場暮らしが長いから。ハイジの父親がいないのは傭兵先で戦死したからやで。

2014-05-30 19:48:13
usa @unak

13世紀後半、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えて混迷の一途を辿っていた。この混乱を終わらせるべく、大諸侯間の駆け引きの結果、国王選挙で選ばれたのは、スイス土着の無名の一諸侯であった、ハプスブルク家のルドルフ1世であった。

2014-05-30 21:08:02
usa @unak

ルドルフ1世はドイツ王となって帝国経営に乗り出した……のだが、辺境の一諸侯が国王になったからって大諸侯たちが言うことを聞くはずもない。それでも、ルドルフはせめて自家の勢力拡大だけは成し遂げようと、必死で頑張ったのであった。

2014-05-30 21:09:44
usa @unak

そして、そのルドルフの頑張りの結果、大諸侯も「ハプスブルク、けっこうやるじゃん」と考えを改めた。結果、ルドルフ1世没後の国王選挙では「次はハプスブルクはやめとこーぜ」ということになった(笑) 選挙に敗れたルドルフの息子アルプレフトは、失意のうちに故郷スイスに帰った。

2014-05-30 21:11:37
usa @unak

ま、ドイツ王・皇帝になれなかったなら、今まで忙しくて放っておいた自領の経営に専念するしかない。ところが、この間放任されていたスイス住民たちは、いきなり上からの締め付けが厳しくなったことに反発した。代官ゲスラーの横暴に腹を立てたウィリアム・テルがリンゴを射る羽目になったのはこの頃。

2014-05-30 21:14:09
usa @unak

かくしてスイス人たちは盟約を交わしてハプスブルク家の支配に対して蜂起し、最終的にスイスからハプスブルク家を追い出して自治国家連邦を作り上げた。これがスイス連邦の始まりである。つまり、スイスはその成り立ちからして武力闘争路線なのである。

2014-05-30 21:17:13
usa @unak

その後も、勢力と権威を増したハプスブルク家が何度もスイスに侵入したが、連邦はこれを幾度となく撃退。最終的に、15世紀末に「中世最後の騎士」皇帝マクシミリアン1世の侵入を撃退したことにより、スイスは帝国からの独立を勝ち取り、「スイス人民軍強し」の評が欧州全土に轟くことになる。

2014-05-30 21:20:05
usa @unak

帝国からの独立を達成したスイスは、安全保障を確立するため北イタリアを侵略しようとするが、フランスに敗れてその野望は砕かれる。しかしスイス軍の強さへの信奉はこの程度では揺らがなかった。拡張政策を断念したスイスは、フランスとの和約条件もあり、兵士を傭兵として輸出するビジネスを始める。

2014-05-30 21:22:34
usa @unak

こうして、16世紀初頭から19世紀の終わり頃まで、欧州各地の戦場でスイス人傭兵の姿が見られるようになった。特に、歴代のフランス国王とローマ教皇はスイス人傭兵を重用し、フランスでは近衛の枢要をスイス人部隊が占め、またバチカンでは教皇警護をスイス人部隊が独占した。

2014-05-30 21:25:30
usa @unak

しかし、戦場で度々スイス人傭兵同士が両軍に別れて戦うという事態が増えたことによるスイス国内での傭兵輸出への批判、そしてナポレオン戦争からの国民軍の発生などによる需要の減退により、19世紀末、ついにスイスは傭兵輸出を終了し、長きに渡った「血の輸出」は終わりを告げたのであった。

2014-05-30 21:28:41
usa @unak

ただし、現在でも唯一の例外としての傭兵輸出が続いている分野がある。ローマ教皇警護は今日でもスイス人部隊によってまかなわれており、バチカンに行けば昔ながらの独特の色彩の制服を着たスイス兵に出会うことができる。ぜひバチカンに行ったら彼らを探してみてほしい。(本稿終わり)

2014-05-30 21:32:37