聖餐のユダヤ的起源
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メルキゼデクの名は聖書の中で他にどこに出てくるだろうか。実はダビデ作とされる「詩編」の中に出てくる。ここはあえて原書から引用しておく。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 18:47:56「The LORD says to my Lord, "Sit at my right hand, till I make your enemies your footstool."」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 137
2014-06-14 18:50:37「The LORD sends forth from Zion your mighty scepter. Rule in the midst of your foes.」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 18:53:27「The LORD has sworn and will not change his mind, "you are a priest forever after the order of Melchizedek."」 (PSALM 110:1-4) #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 18:55:22「わが主に賜った主の御言葉。 「わたしの右の座に就くがよい。 わたしはあなたの敵をあなたの足台にしよう。」 主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。 敵のただ中で支配せよ。」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 21:42:18「主は誓い、思い返されることはない。 わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)。」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 21:43:20詩編がダビデ作とされていることも鑑みて、ダビデが「メルキゼデク的祭司」でもあると見なされていたことが示唆される。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 21:45:41最初の疑問、なぜダビデ一行は祭司にしか許されない聖別されたパンを食べることができたのか? これについての答えは聖書に散りばめられたパズルのピースを組み合わせると出てくる。すなわち、ダビデは王であると同時に「祭司」でもあり、その時清められた状態にあったからだ。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 21:48:09ようやく福音書に戻る。なぜイエスは、一見律法破りに見える弟子たちの行為を弁護する際、このダビデのエピソードを挙げたのか。「ダビデほどの偉い者でも律法を犯しているではないか」という開き直りだろうか。まさか!イエスはダビデが「メルキゼデク的祭司」だと知っていた。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 21:51:11「イエスは弟子たちへのファリサイ派の批判への応答において、実はこう言っているのだ。「私はダビデ王に類する者であり、弟子たちはそのお供である。ダビデはメルキゼデクの系譜に連なる祭司なのだから、私たちも祭司のように行動できる」と。」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 138
2014-06-14 21:54:17ピトルが指摘する、二点目のイエスの弁護のやり方は、安息日でも、神殿の祭司たちは働くことができ、かつ律法を犯していることにはならない、という事実である。 「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:00:05ここでイエスは、律法を破っているではないか、というファリサイ派の批判に対して、律法そのものによって反論している。このことは、「律法よりも人が大事」的ななまぬるい解釈を難しくしているように思える。ちなみによくある律法と愛との「二項対立」も疑った方がいいだろう。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:02:36律法によれば、ユダヤ人は安息日には、料理することすら禁じられるが、神殿の祭司たちは、安息日に捧げる供えのパンを作ることができた。それは安息日の掟を破ることだが、にもかかわらず、神殿においてはむしろそれは正しい行為であった。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:05:16すなわち、イエスのこの第二の弁護は、「弟子たちは祭司なのだから、安息日においても「働く」ことは正しいことである」と言っていることになる。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:07:26ピトルはこの第二の弁護について解説した直後、以下のような疑問を挙げている。「しかし、イエスはいかにしてこのようなアナロジーを引くことができたのか? 彼がそれをファリサイ派に言ったのは、神殿の中ではなく、ガリラヤの麦畑なのに?」 #聖餐のユダヤ的起源 p.139
2014-06-14 22:12:33「この疑問が、イエスの第三にして最後の点へと導く。それはおそらく三つの内最も重要なことだ。その弁護とは、イエスが彼<自身>を神殿と同一視することだった。」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:15:24「お分かりの通り、ファリサイ派へのイエスの最後の応答は、聖書に訴えず、彼自身の権威、彼自身の神秘的な身元に訴えている。驚くべきことに、彼と弟子たちを弁護してこう言ったのだ。「神殿よりも偉大なものがここにある」(マタイ12:8)」 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:20:16この言い回しは暗にイエス自身が「神殿」であることを意味する。ファリサイ派にとってはこの発言はとんでもないことだった。彼らにとって「神殿」はこの世における神の住まいに他ならない。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:25:38「古代のユダヤ人にとって、神殿がこの世における神の住まいであるならば、何が、あるいは誰が、その神殿より偉大でありえようか? どんなに知らないふりをしようとしても唯一可能な答えは神自身でしかありえない。」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 140
2014-06-14 22:28:32「一言で言えば、イエスは自分自身こそ<ほんとうの神殿>だと言っている。彼自身がこの世において神の住まう所である。彼は神の現れである。」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 140
2014-06-14 22:32:10「イエスの主張にある「神性」に関して疑う方は、彼がすぐそれに続けて、彼自身を「安息日の主」(マタイ12:8)である人の子と同一視していることに注意されよ。先にも言った通り、また古代のユダヤ人もよく知っているように、安息日の主は唯一である。」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 140
2014-06-14 22:33:47「それは世界を創造した時に、安息日も設けた方である(創世記1章)。イエスのこれら二つの主張に照らして、ファリサイ派がこれにどう答えたか福音書が何も語ってないのは不思議ではない。おそらくあまりの冒涜に黙って立ち去ったのだ。」 #聖餐のユダヤ的起源 p. 140
2014-06-14 22:36:17これまでのことをまとめる。マタイ12:1-6の安息日論争は、表面的に読むと「律法より人が大事」というような解釈になりがちである。しかし、仔細に読むと、イエスはファリサイ派の批判に対して、まっとうに、古代のユダヤの伝統に沿ってまずは反論している。 #聖餐のユダヤ的起源
2014-06-14 22:38:32