藤田直哉「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」を巡って
藤田直哉氏「前衛のゾンビたちー地域アートの諸問題」を読んだ。今最も隆盛している「現代アート」は村上隆でも会田誠でもなく「地域アート」である、という見解だが、もしかしたら鳥取県もその好例かもしれない。いわゆる「鍋と画壇」問題。
2014-09-09 21:06:59今RTさせていただいた中の関係性の美学の影響については、ご指摘されている通りブリオーが編集に関わった『芸術についての記録』自体が翻訳されていないのに、何故か地域アートやリレーショナルアートに関わる学生の方とかが「関係性の美学」という言葉「のみ」を頻繁に出すんですよね。不思議なこと
2014-09-09 21:18:59@ni_ka 私個人の感覚ではいわゆる広義の批評が排除されてる感覚はそんなになくて、無責任な立場から記事だけ読んだり一日だけ参加してあーだこーだ言うのは割と自由かな、と思います。私は批評家じゃないので分かりませんが、責任ある立場では慎重にならざるを得ないのかも知れませんね
2014-09-09 21:19:06例えばAAF学校などで「前衛のゾンビたち」のような地域アートへの批判を踏まえているのか、今回の論考に対してどう反応するのか、興味があります。asahi-artfes.net/news/2014/03/a…
2014-09-09 21:21:06@akitasanjanaiyo とてもそのご感覚はわかるような気がいたします。ただシステム上生じる問題なのか所謂仲間内以外の評価をもう無意識レベルで排除するような傾向があるように感じる輪があるような気がするんです。ただの私の感覚なので間違えているかもしれません。
2014-09-09 21:24:21@akitasanjanaiyo 突然の@にご丁寧にありがとうございます。じっくりご考察をアーティストとは異なる立場からされていらして、そういうのはとてもかけがえが無いのでとても勉強になります。
2014-09-09 21:26:18@ni_ka 性質上「地域住民にとってどうなのか」「参加者にとってどうなのか」を重視してて(それはそれで大事な事ですが)、排除とまでいうとあれですが相対的に外部の評価をそこまで重視してないのかな、って感覚はありますね。
2014-09-09 21:38:48@ni_ka 単なる素人の思いつきなのでそんなに重く受け止められられると困りますが、ちょっとでもお役にたてたのなら幸いです。ご丁寧にありがとうございます
2014-09-09 21:42:04藤田直哉さんの「前衛のゾンビたち—地域アートの諸問題」に対する、アーティストは批評家と「契約」なんかしてないって指摘。その「文字通り性」はいかがなもんですかね。ぼくは「契約」を、約束をかわすくらいに、結託とほぼ同義くらいに読んだけど。
2014-09-09 23:14:09ちなみにその冊子の中の、融解する「自我」たちの織りなす社会ーポストモダンの正嫡としての『攻殻機動隊ARISE』、は「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」を巡って(togetter.com/li/716706)でも話題の藤田直哉さんです。
2014-09-10 01:05:25そうそう、自分が見てないからあれだけど、小豆島とか枝光とかいくつかあるんだよね、ガチで地域アート系の演劇。それらが、どういう方向性で地域や住民と関わっているのか、気にはなっていたのだ。それで、藤原力とかが参入してくれるのを期待して、「まとめ」作ったというのもある。↓
2014-09-10 02:41:42昨日ツイートした、地域アートの「可能性の中心」。「共同体の脱構築」とはかつての「農村オルグ」、「都市に社会性をマウント」とは68年の「シチュアニスト的介入」(のリサイクル)的なことかも。 bit.ly/1tskyOD bit.ly/1tskVsp
2014-09-10 03:17:21.@nukisuke @sakuraikeisuke 感想有難うございます。本文に書いたのですが、京都国際舞台芸術祭のフリンジ企画の製作でni_kaさんのアシスタント(?)をやったので、演劇の場合でも「町興し」的諸問題は起きうるなぁという実感があります。
2014-09-10 04:07:12.@nukisuke @sakuraikeisuke 演劇も基本的に、観客は鑑賞するだけではなく参加型の体験をする側面がありますよね。すると、観た人しかわからないので、批評が機能しにくい。「記録」はあるにせよ、ビデオや証言はあくまで記録であって、体験ではないですからね……。
2014-09-10 04:08:44.@nukisuke @sakuraikeisuke 批評が機能するためには、作品がある程度参照可能でなくてはならない(でないと批評がまず読まれない、発注されない、批評を読んで作品を見てみる機会や正誤を読者が判断する機会がない)が、それが困難であるということの問題は類似かと。
2014-09-10 04:11:12.@cezannisme ありがとうございます。「関係性の美学」周りは早く訳出されるべきですね…… 星野太氏の翻訳・紹介に私は随分と助けられています。で、「美」についてですが、実はこれ、ぼくが具体的に案があるわけではないんです。それを作り手が意識することが重要なのだと思います。
2014-09-10 04:15:24.@cezannisme 何を「美」とするかは、個々の作家や鑑賞者が真剣に考えて、提示すればいいんだと思います。ただし、「美」(これは田中さんの仰る通り、芸術の固有性と言い換えてもいいかもしれないです)という特異性を維持しなければ、他のジャンルに抱合されかねないと思うのです
2014-09-10 04:17:28.@cezannisme 例えば、「美」ないし「芸術の固有性」の存在が立証できない「町興し」を目的としたアートは、文字通り「町興し」に包摂され、「問題提起」を目的とする場合は「問題提起」に包摂され、「社会を変える」を目的としたら社会運動に包摂される。そして、消える。
2014-09-10 04:19:21.@cezannisme そこで消えないために何が必要なのだろうかを真剣に考えると、必然として、「美」の存在証明のようなもの、芸術の存在意義の証明のようなものを、他の基準に基礎付けをさせないような形で主張し、説得しなければならないと思います。「色々できるメタジャンル」的定義であれ
2014-09-10 04:22:23体験型とかプロセス型とか参加型の芸術を批評するような言語を作るのが批評家の仕事だろ、というのは、そうかもですね。批評とは、市場とは別の原理で質を測る方法の一つだとぼくは思っています。あったほうが、引っ掻き回されて、活性化したり淘汰したり進化が速まるような触媒みたいなものかと。
2014-09-10 04:29:24個別の作品の「可能性の中心」を見ていない、という批判もいただきました。それは、今回の評論の性質(様々な作品や動きの背景にある思想のようなものを、星座のように浮かび上がらせる)からして、犠牲にしてしまった側面ですので、申し訳ないと思います。
2014-09-10 04:33:32地域アートの中にある個別の作品の「可能性の中心」があるのだとしたら、それを体験していない人にまでその価値(美)を伝え、説得させ、作品の価値を位置付けられるような言語を発明して、世の中に流通させるといいと思うのです。それはある意味で、個別の作品に惚れ込んだ人たちの責任ですね。
2014-09-10 04:35:51ぼくが今回の論考で行ったのは、その手前まででしかないです。まずは、その手前までしかできないという限界を指し示すことから、次の一手を考えていくことができるんじゃないか。あるいは、反論として「こんなすごい作品がある」という怒りから批評言語が発明されるのではないかという期待もあります。
2014-09-10 04:39:08